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狭山事件: 「区長」について その1

狭山事件関係の書物や議論の中で、「被害者の父親は上赤坂の区長を務める地元の実力者で…」という記述が時々出てきます。しかし、この「区長」がなんなのか、きちんと説明した文章を私は今まで見たことがありませんでした。
狭山市は東京23区内でもありませんし、政令指定都市でもありませんので、現在通常使うような、例えば「港北区長」「中央区長」などの「区長」とは意味合いが異なることは確かです。

先日、伊吹隼人さん(ならびにSさん)から『郷土誌ほりかね』という本の存在を教えていただきました。そこに区長についての話が出ていましたので、備忘録の意味も含めてまとめておきたいと思います。

いつもならここで郷土誌ほりかねのスキャン画像を置いておくところですが、古い郷土誌であまりにも個人情報てんこ盛りなので自粛させていただきます。あしからずご了承ください。

区長の起源は、明治5年に始まった戸長制度にあります。
戸長は、数カ村をまとめて区とし、その長として置かれました。なぜ区の長なのに戸長なのかは不明です(笑)。この戸長・副戸長には旧来の庄屋・名主を任命することが多く、徴税や義務教育、徴兵管理などの地方行政のかなりの部分に対して協力する存在でした。ちなみに、明治2年の記録では、上赤坂は前橋藩、中新田は川越藩、青柳は品川県となっているそうで、江戸~明治期の堀兼周辺の帰属はかなり複雑であったことが伺えます。

その後、戸長は選挙で選出されるようになったり、また官選に戻ったりと紆余曲折があったようですが、最終的に明治17年(1884年)に「戸長選任及び町村連合に対する太政官布達」(太政官達第四十一号)が出て、1) 300~500戸単位で「連合戸長」を任命すること、2) 戸長・連合戸長は(選挙の結果を参考にしつつ)官選とすることになりました。この時誕生した「連合戸長」は、付随して「戸長役場」が設置されるなど、「村」と同様の地方行政を担う存在であったようです。

明治22年(1889年)には町村制が施行されて堀兼村が誕生しました。その際に、従来の「戸長」が「区長」に改称され、村条例で区長の仕事を定めたとされています。しかし、その肝心の村条例が残っていないそうで、それ以上の詳細はわかりません。この区長も官選で、資産などの条件がついており、「世襲的のように長い間区長は動かなかった」とのことです。

その後、戦時中の隣保班(隣組)の制度や、戦後の公民館制度などとも微妙に絡み合いながら、結局のところ「区長」という名称で、少なくとも狭山市内においては半ば公的な存在として認知されていたようです。昭和45年(1970年)に改定された「狭山市区長会連合会規約」の第一条にも「本会は狭山市区長会連合会(以下連合会)と称し、事務所を市役所総務課内に置く」と規定されていて、区長会連合会の事務局を狭山市役所自身が務めるほど、公的に認められた存在であったことがわかります。ただ、いつから公選ではなく選挙で決まるようになったのかは不明です。

上述の「規約」の第四条には、連合会の事業として下記の4項目が掲げられています。

  1. 地域自治組織(各地区区長会)の連絡に関すること
  2. 自治活動の総合計画に関すること
  3. 市並びに関係団体との連絡協調に関すること
  4. その他本会の目的達成のために必要なこと

要するに、市に対する政策陳情、逆に市から下りてくる諸施策への協力等(例えば回覧板を通じて、等)が区長の仕事ということになるでしょう。

この先は私(本ブログ管理人)の想像が入ります。農地関連や市関連施設の誘致なども、市としてはまず区長(連合会)に諮問して、それから業務を進めるという形だったのではないでしょうか。従って、例えば市街化区域の指定などの具体的な線引きには、それなりの影響力を持っていたものと私は考えます。

長々と書きましたが、被害者の父親が就任していた「区長」とは下記のような存在だったと私は考えます。

  • ほとんど公職に近いものである
  • その経緯からも、家柄や資産などが実質的に就任の条件となっていたものと思われる
  • 市が政策を実行するにあたって真っ先に諮問が下りてくる存在であり、具体的な執行方法に対して大きな影響力を持っていた

このことが、「狭山事件の推理」にどう影響を及ぼすかを次回以降書きたいと思います。