狭山事件: 現地調査終了と川越高校入間川分校校舎の盛り土について

4月30日の調査は無事終了しました。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

現地調査の際に伊吹隼人さんから、「入間川分校は、旧木造校舎を鉄筋コンクリート校舎に建て替える際に、3~4mほど盛り土がされているようだ」というご指摘をいただきました。確かに木造校舎の写真と現在の写真を見比べてみると、木造時代には向こう側にある公民館とほぼ同じ高さに校舎があるのに対して、現在はかなり大きな段差があります。

bunkou木造時代の分校校舎

現在のほぼ同じ位置からの撮影

この写真を見比べると、木造時代には向こう側に見える公会堂と分校校舎がほぼ同じ高さにあり、道路からかなり下がった位置にあったのに対して、現在は公会堂よりかなり高い位置で、東道路とほぼ同じ高さに分校校舎(現在の准看護学校校舎)があります。

現在、西側(旧正門側)は、石垣があってその上が土の土手になっていて、その上に鉄筋コンクリート校舎が建てられています。どうやら、木造時代はこの石段の部分までの高さだったのを、盛り土をしてさらに高くしたようです。
今回の現地調査時の写真
この写真は正門側(西側)の様子です。現在の准看護学校(元の分校校舎)は、石垣よりもかなり高い位置に建っているのがご覧いただけると思います。

この辺、伊吹さんにまとめていただいたので下記に引用します。

  • 写真で見ると、当時の「公民館」と「分校」は同じ高さ(ほぼフラット)に存在している。
  • 当時も校舎東側に現在と同じ坂道はあったが、そこからは土手を下りなければ校内に入れない状態となっていた。
  • そのため、入間川分校の正門は西側に設けられていた。
  • 鉄筋校舎に建て替えた際に、3~4m程度の盛り土がされて、東側からの入場も可能となった。逆にいえば、これを目的として盛り土がされたと考えられる。
  • 当時の航空写真をみると、現在の武道館の位置に「割烹室」と「和裁室」がある。
  • 八幡神社方向への坂道に合わせて、現在の武道館の位置にはさらに1~2mの盛り土がされている。
  • 従って、正確にいえば事件当時の入間川分校は、現在の「狭山准看護学校」「狭山市武道館」の「地下」にあった。
  • 西側からみた場合でいえば、おそらく道沿いの石垣のすぐ上あたりに校舎があった。
  • 従って、事件当時は西側道路から正門に至る細い坂の通路も今より短く、楽に登ることができた。

というわけで、この事実は、「が一旦出ていって戻ってきたと仮定した場合に、急坂を登って自転車置き場に自転車を戻すのはめんどくさいのではないか」という私が以前書いた説に対しての強力な反論となっています。

やはり、何度行った場所でも、きちんと現場を確認していくと新たな発見があるものです。

下記の写真は昭和18年の入間川公会堂です。ここでも、入間川分校の敷地と公会堂の敷地がほぼフラットであり、東側の道路からはかなり下がった位置にあることが見て取れます。
『写真が語る狭山のあゆみ』 より


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7 thoughts on “狭山事件: 現地調査終了と川越高校入間川分校校舎の盛り土について”

  1. 今回参加されなかった方や、今まで現地をご覧になっていない方のために、現場の変遷について若干解説を付け加えておきたいと思います。

    ◎入間川分校
    上記のとおり、今回の調査により分校跡には盛り土されていることが明らかになりました。
    西側道路から現在の看護学校に至る細い通路は、緩やかに登ってからやや右に折れて急坂となっていますが、そうなると当然のことながら、事件当時「折れた先」はなかったことになります。また、今は坂を登り切ったところに2本の分校時代の門柱が残されていますが、これも元々は「通路が折れる付近」にあって、玄関はそれと「向かい合う形で存在」していたと考えられます。ですから、頭の中で当時の校舎を思い描く際には、南北方向の位置についても多少修正を加えておく必要があることになります(敷地自体も現在より広かったことは確実です)。

    ◎第一ガード
    事件当時は東側出口を出たところで道が2本に分かれていました。現在、荒神様方向に向かう道はなくなり、住宅となってしまっています。なお、事件の頃、道は2本とも森に囲まれた暗くて細い、未舗装の道路でした。被害者はこのガードの東側出口で、消えた道の方角を向いて立っており、主婦NIさんは同じ道を荒神様方向から下って来た際にその姿を目撃しています。

    ◎第二ガード
    現在、ガード東側の「山学校」「中央中学校」方向へは下り坂となってから、また登り坂となっていますが、『狭山事件 第1集』(亀井トム・著)の写真にあるとおり、事件当時は全体が緩斜面となっていました。また、道はそこを僅かに蛇行する形で登りになっていました。理由・時期は不明ですが、この付近で斜面を広範囲に掘り下げる大土木工事が行われたことは確実です。

  2. 正門今昔について書き込ませていただきます。

    記事と伊吹氏のコメントを拝読致しました。

    つまるところ当時の正門は、3、4メートルの盛り土を差し引いた石積みの高さで、それはつまり、現西側坂道を上り「通路が折れる付近」にあったとのこと。

    ここですと木造校舎の長さに対し、敷地内に入りきらないと思いますが、如何でしょうか?

  3. 入間川分校跡地盛土問題について…排水をスムーズにするためというのも理由にあるのではないかと思ったものですから、伊吹先生の発見に乗っかるようですが、素人の見解で恐縮です。あの土地は西から東へ段丘状になってたと思われるので、盛土して北側の道路に埋設してある雨水管・汚水管に流れ易いようにしたのではないでしょうか?

  4. 米子様

    これは判断が難しいですねえ。。
    現在の「准看護学校+武道館」がそのまま「=入間川分校跡」とは限りませんし、分校建物の規模・範囲についての記録がほとんど残っていないのですから(各室および総坪数のみ)、何ともいえないような気がします。
    ただ、当時の写真を見ると門前が平坦になっていますから、当時の坂を上がり切った地点より若干の通路を経て北側に門が設けられていたことは考えられるかもしれません。

    3秒様

    3秒さんのおっしゃる通り、あのあたりの地形は入間川に沿って典型的な河岸段丘になってますよね。そうなると、「北側にある雨水管・汚水管に流れやすいようにする」ことも、確かに盛土の目的の一つではあったのかもしれません。

    ただ事件当時、学校へ入る方法としては、西側の細い道に車を停めて細い通路を登るしかなかった(被害者を探しに行った長兄氏もそうしています)ことを考えると、やはり「道路から直接学校に入場できるようにする」というのが、最大の目的だったのではないかと思います。学校が看護学校に変わって、医療関係者が多く出入りするようになり、さらに南側に市立武道館まで新たにオープンしたとなれば、業務上の利便も考えてそうせざるを得なかった、ということなのではないでしょうか?

  5. 大変お久しゅうございます
    ちょっとのぞいたつもりだったのですが、まだブログが動き続けてることに(不謹慎ながら)小さな感動を覚えました。以前書き込みを迷ったのですが、折角なので日豪録がてら書き込んでおきます。また、他も伸びてるコメントがあるようなのでゆっくり目を通したいと思います。

    2012年5月9日 9:55 AMの伊吹さま
    「盛り土」考ですが、私の考えは異なります。
    造園土木に少し明るい知人に聞いたところ、「盛り土」をした場合、土が馴染むまでの期間がどうしても必要になってくるそうです。盛り土が3メートルともなると少なくとも年単位になるのでは?とも言っていました。調べた範囲では入間川分校の取り壊しはS38年12月、翌S39年1月10日に鉄筋校舎着工、完成は同年8月とありましたので、寝かせおいた期間はほぼ無しと見られます。なので盛り土ではなく「掘削・地面の掘り下げ」だったのではと考えます。

    つまり事件当時は地続きだった分校と公会堂ですが、先ず入間川小学校との間の急こう配の道をなだらかな直線道路に拡張、工事車両が直接建設予定地に乗り入れられるようにした後、鉄筋校舎に着工・完成したのではないかと考えます。取り壊しの廃材自体ここから搬出した可能性もあります。

    その後、残りの分校跡地と公会堂跡地を大幅に削って標高を下げることで、先に工事済みの直線道路と駅通りの二方向からの乗り入れを可能にした「中央公民館」がS43年11月に完成。まるで関係者以外立ち入り禁止のような施設利用の仕方に変わった印象があります。

  6. お久しぶりです。また今後も宜しくお願いします。

    盛り土の件、コメントを頂きありがとうございます。
    ただ、残念ながらこれについては「掘削・地面の掘り下げ」でなく、「盛り土」であることは確実となっています。詳しくは2014年8月10日の「旧川越高校入間川分校校舎取り壊し」記事と添付の画像をご覧ください。

    http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/2764

    アスファルトが剥がされた後、その下からは盛り土がそのまま出てきています(本来の地表と土質が異なっているのは一目瞭然です)。
    また、私は現在の工事が始まる前に現場に入って確認したのですが、やはり石垣の高さと盛り土下部(本来の地表)の高さはピッタリ一致しており、西側通路の「折れ」から先の部分は〝後から継ぎ足された〟形になっていました。おそらくは十分に土を固めた上で、コンクリートによる土止めを行い、そこにアスファルトを敷き詰め、長めの(もちろん、本来の地表以下まで)支柱を建てた上で校舎建設を行っていたのだと思います。

    1. 伊吹さま、お久しぶりです。
      精力的な取材が途切れることなく続いていらっしゃるようで、頭が下がります。
      自分も一段と歳を取ったせいか、以前否定的だった考察に共感を得たりその逆だったりと、
      昨日今日とで不思議な感慨にふけっています。
      改めてブログ内の記事・コメントを読み返そうと決めたところです。どうぞまた宜しくお願いします。

      「盛り土」考
      2014年8月10日の「旧川越高校入間川分校校舎取り壊し」記事と添付の画像、確認しました。
      そうですか、確実なのですか。同時期、私も何度か足を運んでいましたのですがね。
      なにか思い違いの上に、思い込んでる自分がいるようです。仕切り直して再考してみます。

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