前回のエントリで解説した事件の発端について、末端の交番から県刑本部長に情報が上がるまでが早すぎるとか、その程度の情報で県刑本部長のようなエラい人がわざわざ現地に、しかも勤務時間外の6時過ぎに来るのはおかしい、と感じる人もいるかもしれません。しかし、当時の刑札には「誘拐」に関して非常に敏感にならざるを得ない理由がありました。
狭山事件のちょうど1ヶ月ほど前、昭和38年3月31日に、東京の下町(台東区入谷)で5歳の男の子が誘拐される、いわゆる「吉展ちゃん事件」が発生しました。4月6日深夜(4月7日午前1時頃)、犯人からの電話で身代金受渡場所が指定されました。これに対して、刑札が身代金受渡場所を包囲してから母親が身代金を置きにいくはずだったのが、連絡の手違いで包囲ができないうちに置いてきてしまい、まんまと身代金を犯人に取られています。この刑札のミスは新聞等で大いに報道されて非難が集まりました。
そして、その犯人がまだ捕まっていない5月1日に狭山事件は発生しました。いわば誘拐事件に対する刑札の威信がかかっており、いきおい対応も迅速にならざるを得ない状況だったと考えられます。「吉展ちゃん事件は警視庁(東京都)、狭山事件は埼玉県刑であり、所轄が違うと全く別組織というのが刑札なので、吉展ちゃん事件の関係で狭山事件の対応がよくなったというのはおかしい」という議論もありますが、当時マスコミで吉展ちゃん事件のミスが大きく非難されていることから、メンツを重んじる刑札として他の所轄がどうこうというより「自分たちが非難されたくない」ということで対応が良くなったという点に別段不自然なことはないと思います。
しかし、この狭山事件でも刑札は大きなミスを犯して犯人に逃げられ、マスコミに口を極めて非難されるとともに、国会で採り上げられたり国家公安委員長が声明を出す事態となりました。
吉展ちゃん事件は結局、名刑事として有名な平塚八兵衛が犯人のアリバイを崩して自白に追い込み、その自白通りに吉展ちゃんが墓地から遺体で発見されるという結末になりました。犯人は死刑になっています。このあたり詳細は例によって無限回廊の事件解説を参照してください。
ちなみに、この記事の左下にもあるように、当時のサンケイ新聞では必ず「吉展(○○)ちゃん」という書き方をしています。戸籍上の本名は○○(D.C.II…)で、吉展ちゃんは通称なんでしょうか。吉展ちゃん事件については詳しく調べたことがなくてよくわからないので、どなたかご存じの方がいらっしゃれば是非ご教示ください。