狭山事件: 被害者の胃の内容物

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あちこち話が飛んですいません。コメントで被害者の胃の内容についての話をいただいたので、胃の内容物の写真です。被害者の遺体を解剖した結果、

  1. 茄子
  2. トマト
  3. 玉葱
  4. 馬鈴薯
  5. 人参
  6. 米粒
  7. 小豆

の8種類の食材が胃の内容物として確認されています。しかも、写真でご覧いただけるようにほぼ咀嚼したままの、皮の原型をとどめたままの状態です。

この、胃の内容物に関する論点は大きく分けて2つあります。

  • 「時間」に関するもの:通常、法医学的に、食べたものは食後2~3時間程度で胃から腸に送られて胃は空になると言われています。確定判決の認定では、被害者は昼12時頃調理実習のカレーライスを食べた後は特に食事をすることもなく午後4時30分頃に殺されたことになっていますが、このような未消化物が胃に残っていたことと明らかに矛盾しています。
  • 「内容」に関するもの:上述の調理実習のカレーライスに入っていたものは、「肉、馬鈴薯、人参、玉葱、福神漬」+ごはん(米)でした。明らかに「茄子、トマト、小豆、葉」はカレーライスには含まれていなかったものです。また、自宅で食べた朝食には赤飯が出たとのことですが、最後に被害者が確実に目撃されたと思われる3時23分の時点ですでに朝食からは7時間以上が経過しており、朝食の赤飯の小豆が胃の中に残留していた可能性はほとんどありません。

このあたりの議論の詳細は、「狭山事件を推理する」サイト内「法医学的考察2」ならびに「法医学的問題の決着」をご参照ください。
結局、上記の2点を考慮すると、「被害者は1日の夕方以降にどこかで茄子、トマト、小豆、葉、おそらくはそれにプラスして玉葱、馬鈴薯、人参、米を含む食事をとり、その直後、長くても2時間以内に殺害された」というのがもっとも妥当な推論となるという、「狭山事件を推理する」サイトさんの結論に全面的に同意します。

1日夕方以降に、いつ、どこで、誰と、何を食べたのか。これがわかれば、狭山事件自体を解決したも同然でしょう。

特に、茄子とトマトは本来夏の野菜であり、5月初旬にはハウス栽培ものしかありません。現在ではハウス栽培ものは一年中安価に出回っていますが、当時は高級品でおいそれと手に入るようなシロモノではなかったと思われます。また、現在でも狭山市周辺の農業の中心は狭山茶などで、トマト栽培のビニールハウスを狭山市内で見ることはほとんどありません。茄子については漬物だった可能性もありますがトマトについてはその可能性は薄い(ただし、コメントで青トマトの塩漬けのようなものが当時あの地方でも食べられていたというご指摘をいただきました)こともあり、刑札にはこの点をもっと突っ込んで捜査していただきたかった、さらには2審の寺尾裁判長も「カレーの付け合わせとして同級生の誰かが持ってきた可能性もある」などという証言も証拠もない全くの憶測で済ませるようなことをしてほしくなかったところです。

また、現在のようにコンビニ弁当やファミレスもなかった当時のことですから、これだけ多様な食材を一度に食べられる食事がどのようなものであったかという点も疑問が残るところです。当時の農村では若者は結婚するまで親と同居していることが多かったようで、自宅でこういう食事をするとすればまず家族と顔を合わせることになったのではないかと思います。ただし、この点で、OGにはまたしても「新居を使える」というアドバンテージがあります。また、飲食店については刑札でもそれなりに調べたが、当日被害者のような女子高生が食事をした飲食店を見つけることはできなかったというような話をどこかで読んだ気がします(すいません今ソースが見つかりませんので、この点不確かです)。被害者は当日セーラー服のまま出歩いており、その格好で「誰か」と飲食店に入ったのであれば、これだけ話題になった事件でもありますし何かしらの目撃証言が出てくるでしょう。

そうすると、何らかの弁当のようなもの可能性の方が高いのではないかと思います。「狭山事件を推理する」サイトの管理人さんは「赤飯入り」「折詰め弁当のようなもの」ではないかと推理していらっしゃいますが、私(管理人)の小さい頃(昭和40年代……年齢がバレますねw。ちなみに生まれ育ったのは狭山市と方向は違いますが、やはり東京から電車で1時間くらいの小都市です)の実感としては、「弁当」というのは

  • 家で作って持って出る昼飯用弁当
  • 慶弔ごとの時に取る、あるいは会社などでまとめて取る仕出し弁当
  • 駅弁

の3種類くらいで、「折詰め弁当」のようなご飯の入った弁当をお店で気軽に買って食べるという習慣はなかったような覚えがあります(この点は多分に個人的偏見ですので、異論があればお願いします)。

そう考えると、弁当方面では下記のような可能性に絞られてくるのではないでしょうか。

  • 慶弔ごとといえば思い出される、結婚式を間近に控えていたOG。結婚式用の仕出し弁当であれば赤飯も入っていたでしょう。ただし、5月7日に予定されていた結婚式の仕出しの準備を1日に始めていたというのも考えにくいのですけど。
  • 前日が選挙(統一地方選)だったので、選挙用の仕出し弁当の残り。あるいは、当選祝いの赤飯弁当の残り
  • 当日がメーデーだったので、何かのメーデーイベントに参加した人向けに用意された弁当の残り

ただし、昔はそういう仕出し弁当や駅弁にはトマトは入っていなかったと思います。大きいトマトを切って弁当に入れるとベチャベチャになりますし、トマトが弁当の具としてメジャーになるのは、80年代以降にいわゆるプチトマト(写真集ではない方)が多く出回るようになって以降だったのではないかと。そうなると、トマトはどうやって食べたのか、がまた別の問題として出てきます。

いずれにしても、こういった可能性を一つずつ刑札が本気で捜査していれば、真犯人にたどり着くことはできたのではないかと思います。

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35 thoughts on “狭山事件: 被害者の胃の内容物”

  1. とても詳しい説明をして頂いてありがとうございます。サイトの方も今までかかって読みました。この内容の食材で、当時の一般家庭で食べていたようなお料理を想像すると、玉葱&ジャガ芋&人参は煮物、茄子と葉は漬物(葉は汁物かも)、それにご飯、デザートにぜんざいなどの豆、又はお赤飯…誰かが家庭での食事の残りを持って来た可能性もありますね。OGさんは当日、実家で夕食を摂ったようですがメニューに興味ありますね。でも、これくらいの物はどこの家庭でもありそうなので特定は難しいですね。やはりネックはトマトになってしまいますが、そのいい加減な鑑識がトマトだと分かったのはやはり赤い色だったからではないでしょうか?そうなるとやはり、出荷用でなくても自宅用に栽培されたトマトがあるか、他家から貰うかしたのでしょうか…。運送会社勤務のOGさん数日間の積み荷は何だったのかしら?こんなに何十年も経ってからでは、分かっても証明出来ない事も沢山あるでしょうね。

  2. 今日もメニューについて考えていたのですが、バイト先のオバチャンに食材を言って、どんなメニューが思いつくか聞いてみたところ(ポテトサラダ)という意見が出ました。私の知っているポテトサラダはジャガ芋、ニンジン、玉葱の他にキュウリやハムなども入っていますが、季節的にキュウリがなければキャベツなども使うことがあるし、ハムがなければ入れないで作ることもあるそうです。メニューがひとつ増えました。それから今、思い付いた事は、OGさんはもしかすると同性愛者だった可能性が示されていましたが、周囲の人から見ても女性的なタイプという事は、お料理も作ったりしたのかも知れません。そして、遺書には「病気に負けた」と書いてあったらしいのですが、私の推測では、その病気が性癖の事だったにしても、それを苦にしたり、結婚生活への絶望感ではなく、たとえば同性愛相手に頼まれ手を貸した事への絶望だったのではないかと考えています。

  3. OGの当日の夕食については、親類が実家に酒を持ってきてそれで宴会をしていたとのことで、基本的に酒のツマミ系の食べ物だったと思われます。その残りを持って行ったと仮定した場合、小豆がちょっと引っかかりますね。小豆が入った食べ物でツマミになるものが思いつきません。(想像するだけでちょっと気持ち悪くなってきました(笑))

    なお、OGは少なくともその宴会が始まった5時頃から7時頃までは実家にいたと、酒を持ってきたOGのイトコが証言しています。7時過ぎまで被害者を建築中の新居に待たせておいて、それから残り物を持って行ってトマトパーティーというのも、今の都会ならいざ知らず当時の田舎の村では時間が遅すぎる気がします。それなりの内容の食事をさせているくらいですから、待たせる間縛り付けて監禁していたというわけでもないでしょうし。

  4. 管理人様 確かに時間的にも無理がありますね。私もY枝さんを殺したのがOGさんとは思いませんが、誘い出しや食事を提供したのはOGさんが一番身近で自然な相手だったような気がするので…。何より、OGさんの自殺は事件に関与したことが原因だと思うので。ところで、その時代には今のようにコンビニで手軽にお惣菜を買うわけには行かないのは分かるのですが、お肉屋さんや小さな食料店でも簡単なお惣菜は売られていたらしいのです。また、赤飯のおにぎりは和菓子屋さんに売っていたと聞くので、地域の商店や狭山市駅付近にもあったかも知れません。トマトは出所が別の可能性が高いですが…近頃はトマトを見るたびにムカついて来ます。

  5. 随分前の話題に書き込みすみません。

    茄子→生食でも浅漬けでもないとしたら→古漬け(壺漬け)
    トマト→生食ではないとしたら→ドライトマト(米軍関係者?!)
    玉ねぎ馬鈴薯人参→ポテトサラダor煮物
    米粒(餅米?)小豆→おはぎ(ボタモチ)
    葉→お新香(田舎@北関東ですが、今でも農家の人はお茶請けにします)

    暇にあかせてつい考えてしまいました。
    話は飛びますが、今ではGW前の土日に殆ど田植えを済ませてしまいますが、昔は機械もなく何人かで協力しあって田植えをしたそうです。
    5月1日はちょうど田植えの時期にあたりますし、農家は繁忙期で陽が落ちるまで外で作業に勤しんでいた…。
    上記の食べ物は畦に座っておやつ代わりに、又は縁側で地下足袋を履いたまま座って食べる物に近いんです。
    もしも複数犯だとしたら、農家の人、米軍関係者にもたどり着くと思うのですが。
    米軍関係者は調べたのか気になります。
    どうなんでしょうか?

  6. 放置が長くてすいません。

    被害者宅の周辺は、台地なので農家といっても畑ばかりで水田はほとんどありません。被害者宅でもゴボウや山東菜などが主力作物で、米は作っていませんでした。水田は、入間川沿いの地域(西武線の西の方)まで行かないとないと思います。とは言っても、5月はじめには畑作農家も農繁期なのは、「石川さんの『自供』通りの経路で被害者と犯人が歩いたとすると両側の畑で働いていた農家の人で目撃者が出ないのはおかしい」という文脈でも出てきますね。

    私は寡聞にして、この事件で米軍関係者を調べたかどうかについては知りません。ただ、かなり早い時期から被差別部落に絞り込んだ見込み捜査が行われたことは明らかなので、おそらく調べたとしてもおざなりなものだったと思われます。

  7. 農作業については当日は夕方前から天候が崩れていたんですよね、また荒神様のお祭りもあったり。
    そんな日は働いても半日で切り上げる人も多かったかも知れません。
    脅迫状の日付改竄が計画的なら、5月1日しかチャンスはなかったかも。
    トマトについて、米軍関係者=出入りの日本人との想像です。懇意になれば珍しい物の入手出来るでしょうし。
    また全く違う方向ですと、西武新宿線を利用して東京方面で入手したとも考えられます。
    本当に知れば知るほどおざなりな捜査に失望しますね。
    それとも2mの資料の山の中にはあるんだろうか?(笑)

  8. 当日の雨の状況についてはこちらのエントリにまとめましたのでご参照ください。
    本降りになったのは4時20分頃で、それまでは降ったりやんだりでした。その天気の中で農家の人がどの程度働いていたかについては、有名な小名木証言があります。石川さんの裁判の中で、「殺害現場」のすぐそばで農作業(農薬散布)をしていたが、そのような2人連れは見なかったし悲鳴も聞かなかったと証言している人です。その方が午後2時頃作業を始めて4時30分頃に雨が強くなったので作業をやめた、と証言していますので、それまでの雨は農作業を切り上げなくてはならないほどの強いものではなかったと考えられます。

    このことは、被害者が3時40分頃に東中学で目撃された後、もし畑の中を徒歩で歩いたのであれば農作業をしていた人たちの目撃証言が出てしかるべきであり、どこかで車など周囲から見られないような移動手段に移行したということにもつながってきます。

    米軍関係について。私(管理人)の父が自衛官でよく米軍基地に出入りしていましたが、もらってくるのはSPAM缶など(しょっぱくてえらい不味かった記憶があります)が多く、ドライトマトなどの食品原料はありませんでした。一度「ステーキ肉」をもらってきたことがあって、「牛肉だぞー」と言われて期待して食べたところ固くて固くて歯が立たず、「ステーキというのは固くてマズいものだ」という記憶をすり込まれました。
    閑話休題。そもそも、当時の日本(私が知っているのは昭和40年代ですが)では、せいぜいミートソースやナポリタンでトマトケチャップを使う程度で、ドライトマトを使った本格イタリアンな料理は一般的でなかったように思います。被害者の胃の内容物からもイタリアン系食材(シーフードなど)は見つかっておらず、その系統の料理であった可能性は低いと思います。

  9. 〉米子様
    昭和30~40年代にミネステローネは一般家庭には普及してなかったのでは?
    多分、洋食屋、レストラン等、外食限定メニューだと思います。
    当時の狭山近郊に該当するお店はあったのでしょうか?
    それ依然に聴きこみ捜査で「事件当日、制服姿で食堂等に立ち寄った少女は居なかった」と判明していたと記憶してます。

    それに、ミネステローネにするとトマトは煮溶けますし消化時間も考えると皮しか残らないように思います。
    それに、消化の遅いベーコンや肉類が残ってませんから、
    やはり最後の食事は「野菜の煮物」=じゃがいも、人参、玉葱。
    「お浸しor漬物」=茄子、菜。
    「赤飯」or「和菓子」=小豆、米。
    「おむすび」or「米飯」=米
    「味噌汁」or「吸い物」の具として=茄子は季節外れのため、それ以外の上記の野菜全てが候補。

    時代背景や被害者の年齢や限られた時間を考えると、こんなメニューが妥当かと想像しました。

    トマトは完熟ではない限り5月の気候なら日持ちしたのではないでしょうか。
    当時、季節外れの高価なトマトを前もって用意していたのか、偶然置いてあったのかはわかりませんが、
    珍しい物なので、誕生日プレゼントとして被害者に提供したのでは?と想像しています。

    1. ご覧になってるでしょうか?

      恵さま
      いくつか大小の理由で、やはり「ミネストローネ」を推したいと思います。

      >昭和30~40年代にミネステローネは一般家庭には普及してなかったのでは?
      時代が、外で洋食を食べるから家庭で作るに移行し始めていました。
      事件年のS38年1月初旬、顆粒のコンソメスープの素が新発売され、
      外で食べる側から、作る側に回り始めていました。

      >多分、洋食屋、レストラン等、外食限定メニューだと思います。
      >当時の狭山近郊に該当するお店はあったのでしょうか?
      先に説明したように、食材さえ揃えば作る側に回る環境が整い始めていました。
      雑誌本文のみならず付録でさえ各国の料理を紹介、テレビでも料理番組が盛んで盛んに紹介しました。
      興味があれば、作る環境は整い始めていました。

      >それに、ミネステローネにするとトマトは煮溶けますし消化時間も考えると皮しか残らないように思います。
      煮溶けるかどうかは完熟具合や調理時間によるので、一概に皮しか残らないとは言えないかと思います。

      >それに、消化の遅いベーコンや肉類が残ってません
      私も調べて初めて知ったのですが、日本のみそ汁の具材が土地と季節の恵物であるように、ミネストローネも同様のようで、根菜しか入ってないとか豆類を多めになど、決してトマトとベーコンが必須と言うわけではないそうです。日本のミネストローネの定番のような小刻みな具は一説によれば、コース料理のスープをチョイスする際、本来手間暇がかかっているコンソメスープよりも、具材の入っているミネストローネを選ぶ傾向があったので単品化したというのを読みました。だからそこを原点にしなくていいように思います。
      味噌汁が豆腐とわかめと長ネギで定番化されるのに違和感を覚えるのと同じだと思います。

      そう考えると被害者の胃の内容物は、季節を少し先取りした食材があって、まるで盛夏を前に本番に備えて試食会をしたようなそんなイメージさえあるんです。被害者が望んだのか、提供側がそれを餌に誘ったのか、たまたまだったのかは不明ですが。

      >「野菜の煮物」=じゃがいも、人参、玉葱。
      >「お浸しor漬物」=茄子、菜。
      >「赤飯」or「和菓子」=小豆、米。
      >「おむすび」or「米飯」=米
      >「味噌汁」or「吸い物」の具として=茄子は季節外れのため、それ以外の上記の野菜全てが候補。
      いったい鍋や皿や漆器がどれだけ必要ですか?先に調理しておくのですか?その場で調理するのですか?皿に盛り付けてから保管するのですか、保管しておいたのを盛り付けるのですか?自宅では無いところで、前もって用意しなくてはならないハンデの中、どういう段取りでそれらを提供しようとしたのでしょう。

      その点ミネストローネは、
      材料がそろえば鍋一つで調理でき、器一つで食べることができます。
      簡潔だと思いませんか?流行を先取りしたいなら、打ってつけなメニューだと思います。

  10. 昭和のトマトは砂糖をつけて食した。
    聞いたことがあるし、某居酒屋のメニューにもそう書いてあります。
    料理ではなく、デザートでは?

  11. 最後の食事について、質問させてください。

    ところで、これまで何冊かの本やHPでの推理に触れてきて
    あまり可能性として指摘されてないと思うことがあります。
    胃の内容物から、夕方以後に赤飯を食べた可能性があると言われています。

    伝統的に、おめでたい日に赤飯を食べるのは日本全国共通かと思います
    (当日の朝、被害者宅でも彼女の誕生日を祝って赤飯を食べています)。
    そして事件当日は荒神祭りがあった様ですが、
    私の田舎では現在でもこうしたお祭に際して赤飯を炊くことは珍しくありません。

    この掘兼地区ではそのような習慣はなかったのでしょうか?
    もしあったとすれば、事件当日の堀兼地区では荒神祭りや前日の統一選の当選のお祝いで
    多くの家庭で赤飯が振る舞われたのでは、と想像します。
    小さなことですが、疑問に思っていたことなのでお教えください。

  12. 「荒神様」は、入間川駅近くの地主が戦後自分の土地の中に個人的に建てたもので、その存在は離れた場所ではほとんど知られていませんでした。ですから、3~5kmも離れた上赤坂や堀兼でその祭りを祝って赤飯が炊かれる、などということはまず有り得なかったと思います。

    ただ、当時の新聞によれば、事件の日には17時から上赤坂地区で選挙に関する会合が開かれていますし(友人のSさん情報)、その日は当然のことながら市内各所で選挙の祝勝会なども開催されていたようです。ですから、そうした場所で赤飯が炊かれたり、配られたりしていた可能性は十分あるかと思います。

  13. 伊吹様

    詳しい情報ありがとうございます。
    なるほど、荒神様の祭は堀兼地区との関わりは薄いということが分かりました。

    ここで食事に関連して、スレ違いですがもう一つ質問させてください。

    別の掲示板でも書かれているようですが
    狭山地方では「武蔵野うどん」という郷土料理があり、
    慶弔ごとに際してうどんを食べる習慣があります。
    私も学生時代を狭山近隣の東京多摩地方で過ごしたことがあり、
    この近辺では昔は「うどんが打てなければ嫁に行けない」
    と言われるほど親しまれた料理だと聞いた覚えがあります。

    N家では5月1日夜の食事で天ぷらうどんを食べています。
    これまでの狭山事件の関連本では
    5月1日の朝、N家では被害者の誕生日を祝って赤飯を食べたけれども、
    その日、とくにお祝いの予定はなかった、
    とさりげなく片付けられてきました(そのような姉の証言があるようです)。
    しかし実際に夕飯で出されたうどんにも、
    ささやかにであれ、誕生日を祝う意味があったのではないでしょうか。

    そして被害者が友達に対して残した
    「家族で誕生日のお祝いをするので早く帰る」旨の発言にも、
    実家でうどんを打つのを手伝うという意味があった、とも考えられないでしょうか。
    多分に想像を膨らませた書き込みかもしれませんが、ご意見ください。

  14. 武蔵野の各地域には、「お祝いの日」の代表的なメニューを示すものとして、「朝まんじゅうに昼うどん、夜は田んぼの白い飯(「夜」の部分は地域により言い方が異なります)」という言葉が伝わっていますが、これをみても分かるように、かつて「うどん」は「ハレの日」の「ちょっと贅沢な食事」でした。ただ、これも昭和30年代あたりに入るとさすがに単体では〝特別〟というほどのメニューではなくなっていたようです。

    とはいえ、被害者の日記をみると家が裕福であったにもかかわらず、父が倹約家(?)であったためか、普段は麦飯なども食べたりしていたようですから、「天ぷらうどん」が「いつもよりちょっといい食事」であったのは間違いないでしょう。姉のT恵さんは「家で特に誕生祝いなどをやる予定は無かった」と証言していますが、「朝の赤飯」と「夜の天ぷらうどん」が、妹の誕生日を祝うための「せめてもの気持ち」だったということも十分考えられるかと思います。
    しかし、それでも「家族で誕生日のお祝いをするので早く帰る」旨の発言は「 実家でうどんを打つのを手伝うという意味だった」というのはどうでしょうか?
    自分の誕生日を祝うために自分でうどんを打つ、というのでは話としても変ですし、実際被害者は「早く家に帰る」といいながらもまったく早く家には帰ろうとしていません。下校後には近くのガード下で待ち合わせをしていますし、その後はどこかで〝犯人〟から与えられた軽食さえ摂っています。ですから、私はやはりこの話は従来から言われている通り、「HRやクラブ活動に参加せず、早く帰りたいがための言い訳」として級友に語った作り話、とみるのが一番妥当ではないかと考えています。

  15. 伊吹様

    詳しい解説ありがとうございました。
    ふと思いついた疑問というか可能性を書き込んだまでです。
    事件当日のN家で出されたうどんが手打ちだったかどうかも分かりませんしね。

    それにしても、被害者は最後に誰とどこで食事を一緒にしたのか。
    胃の内容物からこれ以上推理するのは難しいのでしょうか。
    決め手となる手がかりが出て来るといいのですが・・・。

  16. 胃の内容物の中でも一番の問題は「季節外れのトマト」ですよね。。

    「ハウス栽培のトマト」は確かに他の野菜より高価ではありましたが、それでも〝バカ高い〟というほどのものではなかったようです。

    ただ事件当時、狭山市内でも奥富地区などではトマトのハウス栽培は始まっていますが、まだそれほど広く一般に出回ってはいなかったのも確かで、そのため販売されていた店もかなり限られていたと考えられます。

    この件ではY枝さんの母の近所の方にもインタビューしていますが、その時に、
    「農家だったら、(自家栽培していない限り)季節外れのものなんか食わねえよ。普段いっくらでも自分の畑のもん食えるんだから」
    といわれた時は「なるほど・・・そりゃそうだよなあ」なんて思ったものでした。ここから考えれば「トマト」は〝農家以外の人間の犯行関与〟を暗示する証拠物、といえるのかもしれません。

    しかし、一番不思議なのは、「なぜこれから殺害する相手に食事を与える必要があったのか」ということですよね。犯人側にとっては、証拠が残るだけで何のメリットもないはずですし。

    食事を与えた人物は、ただ「接待」を担当しただけで、殺害の意思は持っていなかった、ということも考えられますが、そうなると私の場合どうしてもOGあたりがすぐ頭に浮かんできてしまいます。

  17. 犯人は被害者を一人で、かつ周囲に気づかれずに誘い出し、殺害しなければなりませんでした。
    これは犯行のなかで非常に難しいポイントだったと思います。

    OGは運送会社に勤めていたので、積み荷としてトマトを扱うことがあり、それを取引先からもらったり買ったりした可能性は考えられると思います。「ちょっと珍しいもの」ですから、人を引きつけ誘い出すツールとしてはよかったかもしれません。

    ただOGはN家の作男をしたことがあったものの、事件当時は被害者とほとんど面識がなかったという説もあります。そうだとすると、やはり年の離れた中年男性が女子高生を食事に誘うとか家に招き入れるとかいうのは、一筋縄には行かないように感じます。ちょっと強引な想像ですが、「NさんとこのY枝ちゃんだね。新築祝いの赤飯を炊いているので、E作さんに届けて」といって被害者を呼び出し、新居まで自転車で引率して連れて行き、「そうそう、トマトがあるので一緒にどう?」、といって家の中に招き入れることは可能かも知れません。

    しかしそれでも、OGがどうやって被害者と最初の約束をとりつけたのか、考えるのは困難です。また被害者が下校時に友達に「知り合いの人に用事があるので早く帰る」と言ってしまうとか、あるいは「一緒に来て」といって友達を連れてきてしまうことだって考えられない訳ではないでしょう。中学のA先生に見られて恥ずかしそうにする必要もないですし・・・。ここの推理が難しいです。

  18. ◎トマトは生産者が市場に運び、仕入や食材買い付けに来た人もそこから持ち帰ります。通常、農作物がS通運によって運ばれることはないと思います。

    ◎OGがN家で働いていたのは被害者が2歳から4歳の頃まで(異説もある)とされています。しかし、2年間も住み込みで働いていた訳ですし、N家の両隣りには小・中学校の同級生もいて、さらに近くのMS家でも働いていたのですから、その後もN家とは多少の付き合いは続いていたと考えられます。Y枝さんにしても、普段付き合いは無くても顔と名前くらいは知っていたでしょうし、会えば挨拶や立ち話程度のことはしていたのではないでしょうか?

    ◎OGの新居は9割方仕上がっていたものの、まだ完成はしていませんでした。この時点で「新居祝い」は有り得ないはずです。

    ◎ハウス栽培トマトは、価格的にみれば普通のトマトの倍程度であり、〝超高級野菜〟ではありません。少し経てば自分の家や付近でいくらでも食べられるのですから、単体で女子高生を釣るための〝エサ〟には到底ならなかったと思います。

    ◎Y枝さんは当日の約束について、家族にも級友にも話していませんし、日記にも書き残していません。犯人がY枝さんに対して「絶対このことは誰にも言わないで」(あるいは「××君が『秘密にしておいて』と言っていたよ」)等話して〝口止め〟していたのはまず間違いないでしょう。

    ◎被害者は事件の日、級友たちにウソをついてまで早く下校し、しかも途中待ち合わせ時間・場所を変更されながらも、1時間以上待ち続けています。また、姉もY枝さんについて「以前から誕生日を楽しみにしていた」と証言しています。ですから、その日の予定はおそらく「ちょっとした用事」どころではなく、本人からすれば期待で胸が一杯になるくらいの〝一大イベント〟だったのだと思います。

    ◎「誕生パーティ」の名目で呼び出しているのはまず間違いないですから、呼び出したのは中年男などではないでしょう。私は著書の中でも触れましたが、〝呼び出し役〟はH中同期生の誰かだったと考えています。

    ◎Y枝さんは誰にも約束の内容を話していませんし、さらにA先生の前ではにかむような態度を取ったりもしています。ですから、やはりその日予定していたのは「異性絡み」のイベント(Y枝さんとすれば「人にいえない恥ずかしい話」)だったとみるのが妥当ではないかと思います。

  19. 伊吹様

    一つ一つ説明してくださり、ありがとうございます。
    よく調べておられるので具体的で、たいへん勉強になります。
    上の書き込みで、2点質問させてください。

    1.Y枝さんの日記は、他人に読まれることを前提にしているフシがあるのでしょうか。後に雑誌で取り上げられているものなどを読むと、自分の内面を書き付けていて、こんな形で死後に他人の目に触れてしまうのは心外だったろうな・・・と思わず同情の念をもちました(と言いつつしっかり読んでしまう私も私ですが・・・)。もし他人に読まれることを想定していなければ、誕生日に意中の男子と約束があれば嬉しくて書かずにいられないのでは、とも思います(さすがに口止めされても「日記にも書かないでね」とまでは言われないでしょうから)。ここのところは多くの資料に目を通されている伊吹さんのお考えがあると思うので、お聞かせ頂きたいと思います。

    2.事件当日、Y枝さんを呼び出したメッセンジャーボーイがいるという説を伊吹さんが書かれているのは存じています。ただ、その中学同級生がどうやってY枝さんに約束を取り付けたのか、またY枝さんを呼び出すところまではそれでうまく行くとして、その待ち合わせ場所に現れたOGはどのような誘い言葉でY枝さんと食事をする状況にもっていくか・・・ちょっと想像できないです。さらに、新居までOGとY枝さんはどうやって人目につかないで移動したか?についてはどうお考えでしょうか。

    質問ばかりで恐縮です。取材を重ねてこられた伊吹さんがこのように説を立てておられるのも何かしらの根拠あってのことと思うので、ここに書くことのできる範囲で結構ですので、上の疑問にお答え頂けたら嬉しいです。

  20. 1.誰かに読まれることを想定して日記を書く人間など普通いないでしょう(特にY枝さんは姉・兄に対して腹が立ったことや、MH君への想いなどもすべて隠さず綴っていますし・・・)。
    ただ、当時は子供にカギのかかる個室が与えられるような時代ではありませんから、同じ家に住んでいる以上、「盗み読みをされる可能性はゼロではない」との認識は当然持っていたと思います(私も中学~高校時代はそうでした)。
    Y枝さんが5月1日に約束について一切書かなかったのは、おそらく〝呼び出し犯〟から「絶対秘密に」と言われていたことや、事件直前に「帰りが遅い」ということで姉とケンカになっていて放課後どこかへ遊びに行く予定等が書きづらかった、ということなどがあったからではないかと思います。

    しかし、犯人側にしてみれば日記のことまでは、たぶんまったく考えていなかったでしょうね・・・。事件後、被害者の日記の存在を知った時は、犯人たちも相当冷や汗をかいたのではないでしょうか?

    2.当時はもちろんPCも携帯もありません。手紙を出せばそのままそれが証拠として残りますし、電話をかければ通話記録が残るほか、通常最初に通話口に出る〝主婦役〟のT恵さんに声と名を知られてしまいます。ですから、消去法で考えれば、約束を取り付けるのは、「直接の伝言」以外ほとんど無理、ということになります。
    しかし、主犯がメッセンジャーとしてH中同期生を利用したとすれば、これはさほど難しいことではなかったと思われます。Y枝さんの通学路沿いには当時4人のH中同期生が住んでおり(養豚場隣りと向かい、さらにその隣家と佐野屋。ほか「養豚場にY枝さんと同年代の少年が複数いた」との情報もある)、ほか通学途中では狭山工業高校に通うH中同期生数人と一緒になる時もあった、といわれています。彼らは少なくてもY枝さんの登校時間は知っていた(あるいは容易に把握できた)はずであり、朝通学路で待っていれば用件は簡単に伝えられたはずです。

    あとOGですが、彼はおそらく5月1日の犯行には関わっていないと思います。
    彼は午後3時頃に一旦職場を抜けて新居に寄り、職場に戻ってからまた4時前に退社して、5時くらいには豪雨の中4kmほど離れた実家に戻っています。また、3時頃には新居の前を通りかかった近所の人に自分から声を掛けたりもしています。ここから考えればやはり彼は〝場所貸し〟をしただけであり、新居のカギを開けて軽食を用意し、Y枝さんとメッセンジャーを迎え入れたあと彼らにカギを預け実家に戻った・・・とみる方が自然だと思います。

    なお、第一ガードからOG宅へ最短ルートで向かった場合には、祭りで賑わう荒神様の前を通らざるをえません。メッセンジャーは、おそらく「人に見られたくない」「同級生にウソをついたことがバレると困る」と考えていたY枝さんの心理を利用し、東側の人通りの少ない迂回路を使ってそこへ向かったのではないかと思います。

  21. ある〝ドラマ〟の挿入・「OGと新居」

    OGは実行犯(以下、「X」とする)から何も具体的なことは知らされないまま〝場所貸し〟だけを頼まれていた。Xからの依頼は「Y枝や友人たちが誕生祝いをやりたいと言っている。誰もいない家の方が気兼ねなくできると思うので場所を貸してやって欲しい。3時頃に行くからカギを開けて待っていてくれ」というものだった。OGは職場を途中で抜け出し、3時頃に新居の玄関を開けて待っていた。その直後、近所のO氏が偶然通り掛かったのでOGは家の中から挨拶をした。やがてXが現れたが、「すまないが、Y枝たちの方で都合が悪くなったようだ(犯人側で何かのアクシデントが生じた?不手際があった?)。1時間後にまたカギを開けて待っていて貰えないか」とのことだった。OGは了解し、再び職場に戻った。仕事は3時40分に終了したので、OGは10分ほど控室で時間つぶしをしてから、また新居に向かった。カギを開けて少し待っていると4時にXが現れ、次いでY枝とH中同期生がやってきた。OGはXにカギを預け、「明日は新居に泊まるので×時に××で返して欲しい」と言って実家に戻って行った。H中同期生も「××も迎えに行ってくる」と言って同じ頃に新居を出た(Xに「金をやるからY枝を連れてきてくれ」と言われていただけだった?)。後にはX(2~3人であった可能性もある)とY枝だけが残った。

  22. 伊吹様

    わがままなリクエストにお応えくださり、ありがとうございました。事件の真相についてご著書では述べられていなかった部分も膨らませて述べていただいたおかげで、現時点での推理がかなりはっきり分かったように思います。

    さて上の書き込みを読ませていただき、感じたのは2点です。

    1.メッセンジャーの中学同級生がOG新居までY枝さんを引誘したと仮定すれば、呼出~殺害までの道筋の見通しはよくなると感じます。ただその場合、メッセンジャー役は食事までいっしょにしている訳で、おそらく殺害の場に居合わせたことと思います。また伊吹さんが推理しているように、呼出役はY枝さんに約束を口止めし、かつA先生との遭遇を恐れていることから、自分の行動が犯行計画に関与していることを全く知らなかったはずはないと思われます。下手をすれば、Y枝さんに手をかけた可能性も考えられます。男勝りの性格とはいえ、優等生のY枝さん(や彼女の意中のM君)が平素からそんな(犯行グループに加わるような)ワルとつき合いがあったと考えることは可能でしょうか?

    2.おとなしい性格とはいえ、30過ぎの大人であるOGが15や6の高校生の誕生祝いに新居と食事を提供させられるというのは、ちょっと異常なことのように思います(Y枝さんも新居に着いたとき、自分のためにそこまで準備されていることに気味悪さを感じるのではないでしょうか)。OGはなぜそんなベラボウな依頼を引き受けたのか、またその要求をしたのは誰か、についてはどう考えられますか?

  23. 上の書き込みは伊吹様の直前の
    「ある〝ドラマ〟の挿入・「OGと新居」」が
    管理人様から承認・反映される前に「コメント送信」したもので
    内容が一部かみ合ってない箇所があること、お断りします。

    ただメッセジャーが食事を一緒にしていなくても、悪党だけの場にY枝さん一人残して退けば彼女は「なぜこんな人たちが来てるのか?」「なぜ私一人残されるのか?」と、とても怖かったでしょうし、同級生もその後どのようなことが起こるかはある程度想像できないわけはありません。彼女を欺して呼び出し、口止めし、人目に付かないように誘引していることからして、メッセンジャーについては「彼も欺された」という程度の加担ではなく、相当なワルであろうと感じます。

  24. ☆上記の「ある〝ドラマ〟の挿入・『OGと新居』」で、「3時頃に~Xが現れた」の部分は訂正します。新居にやってきたのなら、その時カギを預ければいいだけの話ですからね(笑)。この部分は「Xから電話があり・・・」に変更します。

    河童さんへ

    1.確かに考えにくいことではありますが、ただ実際にY枝さんは「誕生祝いをして貰える」と考えて1時間以上も待ち、期待に胸膨らませて行った先で突然殺害されています。
    「メッセンジャー」がH中を卒業してからもなお、Y枝さんの誕生祝いをするほどの親しい仲であったのにも関わらず(Y枝さんも一応彼を信頼していたはずです)、実は彼女を騙していた人間で、かつ現場で態度を豹変させているのは間違いないと思われます。
    理由は分かりませんが、普通に考えれば、

    ①主犯に金で雇われていた。
    ②N家と対立していた人物の家族だった、またはその人物に関係していた。
    ③表面的には仲良くしながらも、Y枝さんに対し密かに恨みを抱いていた。

    のいずれかでしょう。③はまず無いと思いますが・・・。

    メッセンジャーには当然「悪事に加担している」との認識はあったはずです(まったくそんなこととも知らなかったのであれば、事件のニュースを聞いた時点ですぐ警察に届け出るでしょう)。
    ただ、Y枝さんと同年代だったとすれば、あれほどの残虐な殺害行為にまでは関わっていないのではないかと思います。彼はおそらく「Y枝を騙して連れてきてくれ」とだけ依頼されていたのではないでしょうか?

    Y枝さんやM君が不良グループと積極的に付き合っていたことはないと思いますが、ただし部活動の関係の人間であれば、多少ワルであっても気を許していたことは十分考えられると思います。

    なお、「事件の日にY枝と第二ガードで出会った」と証言しているA先生ですが、彼は翌日(5月2日)PTA会長でMH君の父親でもあったM秀雄氏と会った時も、一緒に警察に出頭した時もなぜかその話をまったくしていません。謎というほかないのですが、私はもしかしたら彼が第二ガードで出会った際、Y枝さんは「黙って俯いていた」のではなく、「野球部にいたMH君たちと会うことになっているんです」等の話をしたのではないか、とも考えています。

    そのほか、もう一つ付記しておきますが、MH君はなぜか事件後、H中同期生たちとの付き合いを一切絶ってしまっています。これまで同窓会に出席したことも一度もないとのことで、同期生たちも皆不思議がっているようです。

    2.普通なら確かにあまり無いことだと思いますが、OGとY枝さんは顔見知りではあったでしょうし、OGにしても2年住み込みで働いていた家の娘なのですから、「〝誕生祝いを兼ねたミニ同窓会〟の場所を提供してやってくれ」とでも頼まれれば、引き受けたとしても別段不思議ではなかったと思います。彼は何も知らないまま、単なる好意からちょっとした軽食なども用意していたのかもしれませんね・・・。Y枝さんにしても、「(顔見知りの)Oおじさんの家」といわれれば、特に警戒はしなかったのではないでしょうか?

  25.    昭和48年の夏休みに神奈川県の祖父宅(農村ではなく漁村ですけれど)に遊びに行った際、おやつに砂糖がけのトマトを出してもらったことがあります。なかなか美味しかった記憶がありますのでケーキほどの吸引力はないでしょうが、デザート代わりに「○○君たちも後から来るみたいだから、食べながら待っていてね」などと供することはあり得たかと思っております。

        管理人様、伊吹様は閲覧者の皆様で事件当時の関東でデザートとしての砂糖がけトマトを食べる習慣を知っている、あるいは実際食べたという方はいらっしゃいますでしょうか。

        話は変わりまして先日川越と狭山を歩いてみました。農村然とした狭山からみたらお母さんの実家のある川越は徳川家康所縁の地。特別なステータスもありそうに感じました。善枝さんのお母さんは姿形以上に立ち居振る舞いにも平均的な狭山人より美しく見えていのではと思いました(伊吹さんのインタビュー集で善枝さんをびっくりしるほど美少女だった。と言うのも礼儀正しく快活なことからそう感じたのかと感じます。)。
        川越高校川越女子高等学校は今でも優秀で有名ですね。長兄さんも善枝さんもこちらに進学させて貰っていたら、全く違った人生が開けていたのかも知れませんね。

       それにしても善枝さんが恋い焦がれていたM君、事件直後からの交友関係の変化からも事件について何かは知ってしまったのでしょうね。
    まさか直接関与なんてことはあり得ませんので取材に応じてくださる日が来ることを願っているのですが。

        下記ような農村の事件を見ると区長は恨みを買いやすい立場だったのかも知れません。関川村の「有力者」とは区長のことのようです。

    http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1000086.html

    http://jikenshi.web.fc2.com/newpage353.htm

    http://damesoku.blog114.fc2.com/blog-entry-1623.html

    最後に伊吹様へ。
    現地インタビュー集第二弾、伊吹様の執筆で被害者を主人公にして時系列で纏めていただいた小説仕立ての出版も切望しております。

  26. ・トマトに砂糖をかけるのは、中部・関東・東北・北海道など東側の人に多くて、関西人はあまりやらないみたいですね。ちなみに私も昔、茨城に住む友人宅へ行った時に、砂糖がけのトマトを出されたことがあります。それから、埼玉県所沢の友人宅に行って食事した時、その友人の祖父がトマトにスプーンで砂糖をまぶして食べるのを見たこともありました。事件の時も、ちょっとしたデザートor軽食としてトマトが皿に盛られて出された可能性はありますよね。

    ・川越は藩主お膝元ということになりますが、Y枝さん母の実家付近はそこでも一番外れで、しかも開拓前は「絶対に人は住めない」(実際、最初に入った開拓民は途中で撤退しています)といわれた水のない大原野でした。ですから、当時としても居住区としてのステータスはあまり高くなかったと思います。ただ、Y枝さん母の実家のA家は最初に開拓に成功した入植民の末裔でしたから、村内においては「一番格上」ということにはなっていたようです。嫁ぎ先のN家も豪農でしたから、Y枝さんがあの付近で皆から「いい家のお嬢様」と見られていたことだけはまず間違いないでしょうね・・・。

    ・「区長」は確かに現場で直接やりとりする立場ですから、その意味では市会議員などより遥かに「恨みを買いやすい立場」といえるのかもしれません。 選挙云々が間違いだったとしてもそれ以外で何か恨みを買っていたことは十分有り得るのではないでしょうか?

    ・「 現地インタビュー集第二弾」は来年夏~秋頃に発行の予定です。次回、内容としては「Y枝さん同級生特集」にするつもりでいます。「被害者を主人公にして時系列でまとめた小説」を出版することはないと思いますが、それでも今後ミクシィやブログなどで少しずつ、それらしきものは発表はしていきたいと思っています。

  27. 伊吹様

    補足して頂いてありがとうございます。

    個人的には最後に説明していただいた
    OGがXから新居と食事の提供を頼まれた場面については、
    何度か想像を巡らせてみてすこし腑に落ちないな感じもしました。
    うまく説明できないのですが、私の頭の中で設定した三人のキャラクターが
    伊吹さんのドラマの脚本どおりの立ちまわりを
    うまく演じてくれないようなモヤモヤした感じです。

    いくつか思い浮かんだ疑問を述べさせていただくと、
    Xは地元でN家と敵対する勢力に属す悪党なのですから、
    Y枝さんの誕生日祝いを理由に新居を貸してくれと言い出せば、
    OGは「何故?」と考え、そこに不穏で危険な企てを嗅ぎつけるのでは、と思います。
    またこの推理に立つ場合、N枝さんの誕生祝いの主催者(発起人)は
    建前上はメッセンジャーということなので、本来は場所も食事も彼が手配すべきで、
    彼がOGに依頼するのが筋だと思います。
    ところがここでは悪党のXは15か6の高校生の希望を叶えるため
    プロデュース業?に奔走し、OGはそれに協力させられるという構図となっています。
    メッセンジャーの地位がXやOGより高ければありえない話ではないとも思うのですが・・・。

    ただ、ここを完全に推理できれば、犯人が誰なのかが分かるわけで、
    上のドラマも、現時点で明らかになっていることや、
    これまでの取材によって導き出しうる可能性の一つとして受け止めました。
    いずれにしても、これに関してはOG宅のルミノール反応検査の結果
    (警察は家宅捜査の際にやったのでしょうか?)が開示されれば
    かなり白黒はっきりするように思います。

    MH君のその後のことや、A先生の事件後の言動にも謎の部分があることも、知りませんでした。
    これらを含めてどう考えればよいか、ますます分からなくなってきました(苦笑)。

  28. もちろん、前述の推理(仮説)に基づいての話になりますが・・・。

    Xが地元でN家と敵対したのは事件の直前で、それ以前は同じ共同体の中にいたものと考えています。
    OGがN家で働いていたのは14年も前のことですし(付き合いが続いていたとしてもせいぜい挨拶程度でしょう)、普段は別地区(青柳)に住んでいて入間川へ勤めに行っているのですから、上赤坂での政治的対立など知る由もなかったでしょう。ですから、OGはXをよく知っていても、「悪党」とは思っていなかったのだと思います。

    Y枝さんの誕生祝いの主催者(発起人)は表面的にはメッセンジャーということになりますが、実際にはXが「何か理由を付けてY枝を引っ張ってこい」と命じていて、メッセンジャーが「じゃあ、あの子は5月1日が誕生日だから、その日に〝誕生パーティ兼ミニ同窓会〟ってことで連れてきましょうか?」と提案したとも考えられます。
    軽食(トマト含む)はOGによる単純な好意の表れだったのかもしれません。
    いずれにしても、OGは5月1日時点では何も知らなかったのだと思います。時間的にも犯行に加わるのはほとんど無理ですし、実行犯の1人であれば、午後3時頃に自分から近所の人に声を掛けたところで何のメリットもないはずです。そもそも自分の結婚式の直前に殺人をやろうなどという人間がそうそういるとは思えませんし、「気が小さい」といわれる彼にあれ程の残虐な行為はどう考えても無理な気がします。

    警察はOG宅のルミノール反応を調べていると思われますが、すでに事件は時効になっていて、OGはこの世におらず、新居も取り壊されてしまっています。それに、あの当時はDNA鑑定もなく、血液からは血液型くらいしか分からなかったのですから、仮にそれが開示されたとしても単なる状況証拠にしかならないでしょう。

  29. なお、私はY枝さんの殺害状況については、「Y枝さんが1人になった直後、Xや他の実行犯が背後から彼女の後頭部に一撃を加え、失神状態となったところで縛り、強姦し、絞殺した」と考えています。

  30. 伊吹様
    有難うございます。伊吹さんもトマト砂糖がけ召し上がったことあるのですね。
        自分の幼少期の砂糖がけトマト体験がもしかしたら記憶違いかと思っていましたので安心しました。東日本ではかなり広範囲にある食べ方だったのですね。裁判所のトマトはカレーの付け合わせに同級生が持参した可能性云々は発想や知識が貧困な気がします。

    川越の詳しい地誌もありがとうございます。それにしてもYさん母の家系が最初に開拓に成功されたとは。さすげ優秀で意思の強い子の先祖ですね。E作さんの元農協理事、区長と併せて、お母さん嫁入り時にはやっかまれる要素大ですね。そこに利権や恨み、逆恨みが絡みわざわざ暗い時間帯に土饅頭事件を実行した印象を受けます。
       
    雑談モードになってしまいますが、今年狭山市の入間川沿いににクマが出たことがニュースになっていますが「イルマ」の地名由来にもクマが関係してると言う説があるそうです。下記リンク先PDFの真ん中辺りにイルマやイリソ、不老川の沿革?が記載されています。http://www.irumadankai.net/image/fujisawaroman/fujisawaroman.pdf
    鎌倉幕府にとっても川越は流通の拠点として重要な土地だったのですね。
       個人的に堀兼は実際に開墾困難な土地であった筈ではありますが、掘りかねるなどと言う歴史的に浅いものではなく、ポリカナイのようなものであったろうと想像してます。

        現地インタビュー集第二弾を心待ちにしております。拝読してからまた狭山、川越をゆっくり歩いてみたいと思います。ミクシィもブログにも期待しております。

       質問ばかりで申し訳ありません。東京や神奈川は昭和初期から30年代の写真版地誌のようなものが売っているのですが狭山、川越、所沢辺りの本をもしご存知でしたら教えていただけないでしょうかm(._.)m。
         それと「狭山市史」のような物には狭山事件についての記載もあるのでしょうか。
       

  31. >東京や神奈川は昭和初期から30年代の写真版地誌のようなものが売っているのですが狭山、川越、所沢辺りの本をもしご存知でしたら教えていただけないでしょうか

    『写真が語る狭山のあゆみ』その他ありますが、すべて絶版です。ただし、狭山市の中央図書館4F郷土資料室へ行けば閲覧は可能です。

    >それと「狭山市史」のような物には狭山事件についての記載もあるのでしょうか。

    記憶にないのですが、1行くらいサラッと書いてあったかもしれません。「入間川分校で生徒が殺害される事件があった」とか、その程度の記述だったような気がします。

  32. 伊吹様
    ご親切に有難うございます。いつか狭山市の図書館に行って閲覧して見たいと思います。
    伊吹さんや管理人さんは既にご存知かと思いますが先ほどに狭山市役所のHPで奥富小学校の通学風景やY枝さんも事件直前に見たであろう38年4月のオート三輪の選挙カーなど写真を見ることができました。38年前後を境に急速に経済発展をする様子が分かり、私見ですがやはり利害関係の怨恨もあったのかなぁと感じました。それと菅原地区は当時から住宅は多かったのが印象的です。
    http://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/rekishi/shashinten/sisekou_syouwa30/index.html

  33. 突然お邪魔いたします。
    トマトの件で気になったので、事件の真相につながるわけではありませんがちょっとご意見させていただきたく存じます。

    前職でトマトについて知識を得ていたのですが、トマトは元々アンデス高地原産なので日本ではもっと早くから植え付けられます。適正温度は15~30℃とされていますが8~30℃の間は成育し、耐性は5~35℃とされています(つまり逆に関東の真夏の方がトマトにとっては厳しい)。ですので霜が降りなくなったら大丈夫だと思っていいと思います。直まきですと5月下旬まではムリですが、育苗箱などである程度育っているものなら条件によってはハウスなしでも着果し始めると思われます。トマトの品種がわかるともっとたやすいのですが(育成の速度や着花から結実までの時間が違うため)。
    それと入手方法について。まず「現在でも茶畑」と書かれていますが「現在だから茶畑ばかり」が正しいと思います。他の作物が全国流通する時代なので、都心通勤圏として都市化する中で、ブランド品以外の茶以外の栽培をやめてしまったという形だと思います。昭和43年ですと国鉄がチンタラ運びただでさえ隘路へ持ってきてストなんぞやるもんだから夏場には貨物ヤードで生鮮品が腐るといった始末の時代ですから、当時の狭山では稲作を始め様々な作物を育てていたのではないでしょうか。
    そして別に市販されていたものとは限らないと思います。私は茨城県南部、宅地化されていますがちょっと歩けば田んぼが見えるようなところに住んでおりますが、面識のある人の畑の収穫に偶然居合わせて「ほい、持ってけ」なんてのが未だにあります。当時の狭山もそうだったのではないでしょうか?
    ただ、これを言い出すと胃の内容物は何の証拠にもならないという話になってしまうのですが……

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