狭山事件: 『現地からの報告』 その1


『狭山事件・現地からの報告』 たいまつ社

伊吹隼人さんから、1970年代に「」が現地でかなり突っ込んだ取材、特に、関係者に対する聞き取り調査をしていたとの情報をいただきました。今回の画像は、その「」(無実の石川一雄さんをとりもどそう狭山市民の会)が編著者となっている本からの引用です。

「あとがき」に、狭山市民の会の設立経緯が書いてあります。

私たちは、狭山闘争にその生涯を捧げられた故柴田道子さんの遺志をうけついで、「無実の石川一雄さんをとりもどそう狭山市民の会」という団体を四年前(引用注、1975年)に創った。その後、会の活動の一つに狭山現地における調査活動をあげ、取り組んできた結果をまとめたのがこの本である。

私(本ブログ管理人)が昔この本を読んだときは設立経緯を読み飛ばしていたため、中に書いてある記述もそれほど重視していませんでした。しかし、この団体がきちんと聞き取り調査をしていたとすると、この本には無視できない記述がいくつか存在しています。

その一例として今回の画像を引用してみました。サラっと書かれていますが、狭山市民の会が東中野球部員(念のため強調しておくと、被害者が通っていた堀兼中の野球部員ではなく、当日野球の試合が行われていた東中の野球部員です)まで聞き取り調査の範囲を広げていたことを伺わせる記述です。そして、その東中野球部員は、スコアブックを東中の先生経由で刑札に提出したと証言しています。このスコアブックは、東京高検にあるという、積み上げると2mになるという証拠書類の山の中に現在も存在しているのではないでしょうか?

このスコアブックが見つかれば、当日の野球試合の組み合わせから、およその時間経過まで判明するものと思われます。当日堀兼中は試合があったのか(A先生が引率していたのは本当なのか)。OTくんが東中についた時の、「西中対東中の決勝戦の三回表」は何時頃だったのか。3:40頃被害者が東中校庭の外れで野球の試合を見ていたという証言の信憑性などなど、このスコアブックから推定可能な事実は数多く存在するものと思います。

本件は、石川一雄さんの再審請求に関しても重要な話題ではないかと思います。石川さんのアリバイ主張(無罪を主張し始めて以降のもの)の中に、事件当日に「駅前で雨宿りしていたら中学生らしき一団を見た」というものがあります。この資料を証拠開示請求して時間経過を照らし合わせることにより、石川さんが主張するアリバイを裏付けることができるのではないでしょうか。

 

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7 thoughts on “狭山事件: 『現地からの報告』 その1”

  1. 管理人様、伊吹様
    大変ご無沙汰をしております。
    どのタグの付くカテゴリーに投稿して良いかわからずこちらにさせていただきました。
    今後、インタビュー集第二弾で伊吹様が当時の狭山周辺の葬送儀礼に詳しく知る住民や、民俗・宗教などの有識者などへの取材もして頂けましたら有り難く思います。

    私はY枝さんの埋められ方を見て、直感的にですが何らかの葬送儀礼を感じました。又は逆葬送儀礼=成仏させないぞ、というYさん個人ではなくN家に対する怨恨(逆恨みの可能性)も感じたのです。

    伊吹さんの本は現地イタンビューを含めると6回購入し、近代史や事件史に興味のある友人に贈り、事件が風化しないこと、そしてこの事件が平面的な人権問題などでは説明がつかないことを知って貰おうとしてきました。

    民俗学が趣味ですので常態的にその方面の本を購読していますが、この度ある本でY枝さんのご遺体から伸びた長い紐とその先に結ばれたビニール片について「思わずはっとする」写真と記事を見つけました。昔話などではなく事件と同時代又はそれ以降にまで続いて来た記録です。
    その書籍は「写真ものがたり 昭和の暮らし〈7〉「人生儀礼 」須藤功著 農山漁村文化協会」というものです。私は図書館で一部分をコピー(有料)をさせて頂きましたが、アマゾンなどでも普通に販売しいるようです。
    同書によりますと、事件前年の昭和37年には火葬67%、土葬33%とされています(離島などで行われる火葬以外の本土人から見ると特殊に見えてしまう葬送についてはこの統計にどこまで反映されているのか疑問は残りますが)。
    簡単にいますと同書の土葬に関する記載のうちP204からP206を見ると、件の長い紐は土葬の野辺送りの際に縁者が掴みながら歩く「縁の紐」又は「善の紐」(何だか出来すぎた呼び名ですね。)を模したのでないかと感じること、そして祭礼などの際にはその紐の先に「お札を結ぶ」風習があったということです。同書の当該ページには土葬場面は昭和38年、昭和43年、昭和46年の写真と解説が掲載されています。
    私はご遺体を埋めた人物又は埋め方を指示した人物はある程度の地位の家柄や教養があり、正式な葬送の仕方を知りながら、逆さに埋め、後ろでに手を組み、縁の紐(善の紐)の先には紙幣どころかゴミであるビニール片を結びつけ、下着をずり下ろし偽装以上にN家に対する強い恥かしめの意図や怨念の誇示を感じるのです。ビニール片の元でもある風呂敷の「寿」の文字と併せて余計にそう感じてしまうのかも知れません。
    遺体発見時に写真機を持ち出してパチパチと撮影していた長男さんは沢山の思い当たるメッセージが伝わったような気もするのです。
    ご参考urlです。

    http://hisenomarebito.ti-da.net/e894835.html

    http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/sougi/sougi1.HTM

    http://www.amazon.co.jp/dp/4540061089

    管理人さん、伊吹さん、その他の方のご意見も賜わりたく思います。もし、人権とか冤罪とかのバイアスなしに純粋に民俗学者始め葬送儀礼の有識者が1963年の狭山で、あの埋設のされ方について考察してもらった場合、どのような意見になるのかとても気になるところです。

  2. 一反木綿 様

    私も一時期は「(逆)葬送儀礼」説を否定する側に立っていましたが、最近に至りまたこれを考え直し始めています。
    都会では絶対にみられないような、あの〝野辺送り〟の光景や、「テレビと一緒に土葬」との記事を見たり、不必要とも思える埋没時遺体の顔面下ビニール敷・玉石・荒縄・細縄・ビニール片・芋穴廃棄物などについて改めて検討してみると、どうしてもそこには何らかの〝儀式(遺体を辱めるため、敢えて正反対の形式にしたもの)〟を行う意図があったとしか思えなくなってきたのです(近くにカバンを放置されてあったことを考えれば、犯人に「遺体を隠す」意思はなく、埋めること自体が儀式=土葬だったとも想像されます)。
    ただ、具体的にどのような儀式(逆)を模したものであったのかが、もうひとつ分かりません。それが分かれば、真犯人の居住域を特定する有力な手掛かりにもなるかと思うのですが・・・。

    なお、この件につきましては引き続き調査中ですので、また何か新たな事実が判明しましたら当欄で改めてご報告させて頂きます。←一反木綿さんの民俗学的見地からの分析にも大いに期待致しております。
    今後も宜しくお願いします。

  3. コメントありがとうございます。

    「善の紐」ですか。なんとなく、長兄の手記にあったという

    犯人たるおまえに なぜ善人に戻って呉れなかったのか、悪に取りつかれたおまえでさえ戻るのみの善をおまえはもって居た筈であり、その善は今日のこの日を待っては居なかった筈なのに……

    という文章を彷彿とさせますね。

    ただし、この文章についてはサンケイ新聞には掲載されておらず、今のところ甲斐仁志氏の本しか典拠がないため、実際に長兄が書いた手記にあったものなのかどうか、疑問が残るところですが。

  4. 管理人様へ。
    実は私も図書館でその本を読んだ時に「お母さん嫁入り時の土饅頭事件」、「あの家の女の子は育たない。」という噂話、そして「犯人たるおまえに・・・」も想起してしまいました。
    それにしてもなぜ、その後の手記では当該部分をカットしてしまったのでしょう?
    土葬の逆葬送儀礼と辱めに加え、実際には首を締めるにには使っていない首周りの紐は絞首刑を
    模したものもミックスしたのかとも思います。
    いずれにしても私も継続して主犯格に当たる人物が生育した時代の関東での葬送儀礼、更に埼玉の葬送儀礼についてもう少々調べてみたいと思います。

  5. 「犯人たるお前に・・・」からの一文は、サンケイ新聞の初刷りには間違いなく掲載されていました(これについては、甲斐氏に直接会って確認させて頂いています)。しかし、これがなぜ二刷り以降で削除されてしまったのかは今も全く不明のままです。
    これは想像でしかないのですが、「まだ石川氏が犯人かどうかも確定していない段階でこの内容はまずい」と判断した新聞社が独自に削除したか、長兄氏に削除するよう要請した、あるいは長兄氏が新聞社に削除を依頼(よくよく考えてみると、この手記の前半部分とは矛盾する内容です)したことなどが考えられるかもしれません。

    「顔の下のビニール」は、単なる「白布」(本来は顔の上にかけるもの)の代わりだったのかもしれませんね。遺体に対する扱い方が、
    北枕→南枕
    仰向け→うつ伏せ
    合掌→後ろ手縛り
    と、ほぼ通常の逆となっている点は注目されます。

    荒縄→善綱
    ちぎれたビニール片の付いた細綱→お札を付け、ちぎれやすくした縁綱

    の意味で付けたことも十分考えられるでしょうしし、「玉石」や「イゴの棒」も、もしかしたら〝枕飾り〟や〝守り刀〟のたぐいを模したものだったのかもしれません。そのあたりを意識しながらあの付近の古い葬送儀礼を徹底的に調べてみれば、また何か新たな事実が浮かび上がってくるのではないか・・・という気もします。

  6. 「犯人たるお前に…」は実際に掲載されていたことで確定ですか。そうなると、長兄が真犯人を知っているのではないかという疑惑がますます強まりますね。あの文章は、石川さん以外の誰か、端的に言えば長兄の知人である真犯人に向けて書かれたものであるような気がします。

  7. 確かに「犯人たるおまえに・・・」の一文はそれ以前の文章とも噛み合っていなくて、何かヘンなんですよね。
    「Y枝!本当にこの人なのか!」と書いておきながら「犯人たるおまえに」というのも矛盾していますし、一面識もない青年が逮捕され、通りすがりの犯行だったことになっているのに「なぜ善人に戻ってく呉れなかったのか」「今日のこの日を待っていなかったはずなのに」というのも訳が分かりません。

    また、石川さんは上赤坂の農家とまったく関係ない、入間川在住のとび職の青年であるのに「これも農村という古くからの(繋がりに中に)何ものかがひそんでいたのではないか?」「(自分たちを)責めざるおえないのです」と書いていますし、長兄氏は事件直後のインタビューに対しても「父は『おそらく顔は知っている人じゃないか』『犯人が捕まっても会いたくもないし写真をみたくもない。犯人の方でも私の顔をみられないだろう。よく知ってる人に違いないから』と言っております」「ほうぼう連れまわされるよりむしろこうなった方が妹にとって幸せだったのかもしれません」などと不可解なことを話しています。

    私も、長兄氏にははっきりとした心当たりがあり、少なくともその人物を〝主犯〟と信じてこの文章を書いたようにしか思えないのですが、果たしてどうなのでしょうか??

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