伊吹隼人さんから、「区長について その2」エントリへのコメントをいただきました。ただ、コメントとして掲載するには内容が重大すぎると思いますので、新規記事として掲載させていただきます。伊吹さんからも「さまざまな方々のご意見も是非お伺いしてみたい」とのことですので、些細なことでも結構ですのでご意見・ご質問をいただけると幸いです。
なお、下記には今回初公開の内容が含まれています。これらの内容は伊吹さんならびに協力されている方々の取材によって判明した事実に基くものであることを申し添えます。
事件と当時の村内の対立、N家をめぐる事情についてまとめてみました。ここからは果たしてどのような推理が可能になるでしょうか?さまざまな方々のご意見も是非お伺いしてみたいと思っています。宜しくお願いします。(伊吹)
- 昭和8年~9年頃? 被害者の母親のMさんが川越市中福のA家からN家に嫁いだ。A家は中福を代表する大農家の一つ。嫁いだ日の翌朝、N家の庭には〝嫌がらせ〟として墓を模した大きな「土まんじゅう」が造られてあった。美人であったMさんに恋焦がれていた者の犯行とも噂されたが、結局犯人は分からずじまいであった
- N家は戦後、闇野菜で大儲けし、地域を代表する農家にのし上がったといわれている(※後述の通りN家は地元政治家との関係も深く、闇野菜の扱いに関してもその力添えがあったという噂もある)
- 昭和22年、農地改革があった年に被害者が誕生。N家の近隣住民によれば、「N家も、母親の実家のA家も、いろいろ因縁のある家だった」「家族関係が複雑だった」「普通の家族じゃなかった」
- 亀井(荻原調査)本によれば「(被害者宅には)種違い(または腹違い)の噂もあった」
- 野間本によればA先生(被害者の中学3年時の担任)曰く、「変わった家庭だった」
- 上赤坂某地区(以下「C地区」とする)の住民によれば、「N家は複雑な家庭だった」
- N家では被害者と末弟・T君のみ、なぜか名前で共通の字が使われていない
- 昭和22年から食糧増産および農家次男・三男対策、引揚者対策として、上赤坂C地区の山林開拓の話が持ち上がった。N家を含むC地区山林所有者たちや当時の堀兼村長(諸口会三氏=被害者の同級生・諸口高男氏の父)らが猛反対。しかし、結局山林開拓が決定、N家らは広大な自己所有林を手放すこととなった。
- 昭和24年に20名がC地区に入植。そのうち3名は被害者の母・Mさんの実家近所の住人
- 山林開拓は困難を極め、入植民たちは「食うや食わずの」生活をしていた。「まともな生活が出来るようになったのは昭和40年代から。電気が引かれたのは昭和29年、水道が引かれたのは昭和39年だった」(C地区の住民)
- 同じC地区内でも地元出身者(Mさん実家の近所の出身者)と他地区からの入植者(満州や沖縄からの移住者を含む)との間では仲が良くなかった。地元出身者は実家から援助もして貰える立場で生活に不安がなく、他の入植者とは意識が異なっていた。
- 上赤坂地区内において入植民(C地区を含む)や小作人上がりの自作農民は蔑まれており、江戸期からの開拓民(N家を含む)たちから差別されていた。入植民や小作人上がりの者たちには何の発言権もなかった。部落差別とは別の、いわばもう一つの〝差別〟があった。
- C地区の子供たちも当時堀兼小学校では「よそ者」として蔑まれていた。その頃小学校に通っていた者は、今でも同窓会に出席しようとしないという。当時、学校内ではC地区内の子供たちだけで団結していた。その団結力の強さにはかなりのものがあった。
- 江戸期開拓民と小作人上がりとの対立は長く続いた。これは、決して今も解消されていない。ただし、C地区を含む入植民との対立は現在ほぼ皆無となっている
- 昭和28年に被害者の母親のMさんが死亡。死因は脳腫瘍とされているが「毒殺された」との噂もある。収容されたのはなぜか遠方にあって精神科中心の国立武蔵療養所(現在の国立精神・神経医療研究センター)
- 事件の頃は日本が高度成長期にあり、上赤坂近辺でも道路・河川などの開発・改修工事が盛んに行われていた。地価も急激に高騰しており、農家の中には土地を売却して多額の現金収入を得ようとする者もいた。ただし、売却にあたっては市街化調整区域指定など様々な障害があり、当然ながら調整区域の指定にあたっては「区長」を含め様々なレベルでの「政治」の介入が噂された
- 昭和38年3月頃?I養豚場が上赤坂・M氏宅裏手から不老川沿いに移転
- 同年3月~4月頃?被害者の父が上赤坂地区(78戸)の区長に就任。この区長選を巡っては内部で相当な確執があったとされる
- 同年4月30日は統一地方選挙で、その一環として狭山市議会選挙があった。N家がある旧・堀兼村の定員は4人で現職は自民党3、共産党1。自民党現職1名は引退したが、現職3名・新人3名が立候補し、選挙の結果、自民党が4議席を独占することになった。市議会全体では定数30で、改選後は自民と保守系無所属で27、社会党2、共産党1
- 同年5月1日、事件発生
- 警察は事件発生当初、C地区の住民を真っ先に疑った。数日後からは養豚場中心の捜査に切り換えた、とされる
- 「怨恨による犯行の可能性あり」とのことで、警察はC地区とともに被害者の母・Mさんの実家および周辺も捜査した
- N家長兄はインタビューに対して、「『おそらく顔は知ってる人じゃないか』っていうことは父ははっきりと言いました。だから、『犯人が捕まっても写真も見たくないし、犯人とも会ってみたくもない』って父は言っています」「(父は)『犯人の方でも、私の顔を見られないだろう。よく知っている人に違いないから』と言っております」と発言
- N家近所の某氏によれば、「あの時は『長兄がやったんじゃないか』という噂が立った」
- 被害者母校の某教諭は、事件の時すぐに長兄の犯行を疑った(某教諭は被害者宅近くに親戚あり)
- 上赤坂C地区の住人によれば、「事件の時は『(家族関係が複雑だったため)長兄が妹を始末したのでは』との噂が立った」
- N家は事件当時、被害者の母親・Mさんの実家がある川越市中福にも畑を持っていた(現在は川越市に売却済み)
- 平成15年、C地区の開拓に反対した(上記8.)諸口会三元村長の息子・諸口高男氏(被害者の堀兼小・中学校時代の同級生)が自民党の県議となる。N家長兄も高男氏後援会の中心人物の1人だった
本ブログでとりあげている事件に関する同人誌等の通信販売を行っています。詳細はこちらをご参照ください。また、とらのあな通販もご利用ください。
初めまして、「恵」と申します。
数日前に、こちらを発見し、今夢中で過去記事を読ませていただいているところです。
狭山事件は免罪事件として有名なので、
その名称と事件の大雑把な概往は「無限回廊」等の事件サイトを読み、知っているつもりでいました。
でも、こんなに深い事件だったとは… 驚きです。
社会的背景や時代背景、江戸時代から続く地元住民の因習や感情まで関連しているなんて、
この事件はキーワードや謎が多すぎて、不謹慎かもしれませんが目が離せない事件ですね。
管理様、ありがとうございます。
これからも後続記事を楽しみにしております。
最後に被害者の御冥福を祈りつつ、
出来れば自分の存命中に、この事件の真相が見届けられたらなぁと願います。
でも、司法や警察が非を認めるのは、これから先も無さそうな予感がします。 せつないなぁ。
伊吹様、管理人様
値千金と言う言葉だけでは表せないほど大変基調で興味深い情報をありがとうございます。
インタビュー集と併せ土地の歴史や民俗から事件の真相を読み解くギリギリ最後の時代であると痛感し期待もしております。
「バカンス」の文言でコメントさせていただいた事件翌年の映画「馬鹿が戦車でやってくる」では、一見ドタバタ映画の様に見えて、実は農村に潜む差別を描いています。主人
公一家はは大地主の農地の境界の小屋に住み、村人からは小バカにされています。最下級の小作人にも見えますが室内で鳥を多数飼っており畜産系との親和性又は借地ながら定住した元山の民もも感じさせます。農地解放後の軋轢、全て未舗装、信号なし、など、事件当時を感じさせます。
話題を狭山に戻しますが、C地区の結束の中に、名前からすると近隣の村に由来する、元被害者宅住み込み小作人のOG氏が取り込まれていた可能性はないのでしょうか?
HNをおたまじゃくし改め、一反木綿としました。よろしくお願いします。
コメントありがとうございます。
OGの実家は上赤坂地区にも入っていませんし、C地区とは方向が違います。そのため、私(管理人)個人としては、OGはあくまでも利用されたということであって、上で伊吹さんが書いたような地域的な対立の構図とは直接的には無関係ではないかと考えています。
はじめまして。
少し気になる点がありコメントさせていただきます。
15に、
>精神科中心の国立武蔵療養所(現在の国立精神・神経医療研究センター)
とありますが、当時既に精神科中心であったのでしょうか?
私の住む九州に、肥前療養所という精神科の大病院があります。
これには以前、結核やハンセン病等の隔離病棟がありました(精神科が併設していたのかは不明です)。
また、世界的に精神科の治療として脳の外科的手術(ロボトミー手術)が行われてきた歴史があります。
これは事件当時既に禁止とされていますが、とある国立精神科で禁止後も秘密裏に行っていたのではないかと、友人の精神科医療関係者が話していたことがありました(友人の妄言かもしれませんが)。
なお、精神病に見えるものが脳腫瘍による症状である場合もあります。
こういったことから、仮に当時の療養所が既に精神科中心であったとしても、脳外科・脳神経科の医師がおり、脳外科医療の設備があった可能性は否定できないと考えます。
以上を踏まえた私なりの推理です。
仮説1)当時の国立武蔵療養所は脳腫瘍を診る病院であった。
仮説2)脳腫瘍は専門でないが、医師や設備のある病院としては直近であった。
仮説3)入院時には精神病だと考えられていたが、死後または収容後に脳腫瘍だと診断された。
4)発表された死因は脳腫瘍であったが、実は精神病であった。つまり、外聞を気にして脳腫瘍とした。
当時の精神科に対する偏見を考えますと、仮説3はよほど激しい症状がない限り考えにくいところで、その場合暴れたとか錯乱したという近隣の証言が出ると思います。
仮説2も同じように考えづらいのですが、入院後すぐ亡くなったことを考えますと、緊急性が高く人命優先と判断された可能性は0ではないと思います。
仮説4に関してですが、これはカルテや死亡診断書の改ざんがなされたのか、それとも単に一家が周りに脳腫瘍だと説明していただけなのかが分かりません。
すなわち、「脳腫瘍とされている」というのが、伝聞からなのか、それとも正式な診断記録からなのかというところで、信憑性の変わる仮説と考えます。
以上、事件の本筋とは関わりがないかも知れませんが、何らかの参考となれば幸いです。
先ほどの投稿に誤りがありましたので訂正致します。
Mさん(被害者の母)が亡くなった当時、ロボトミー手術が既に禁じられていたと書きましたが、ロボトミーの禁止が協議されはじめたのは1965年(昭和40)以降のことで、
昭和28年当時は精神外科手術と称した開頭手術が当たり前に行われていました。
(出典:「精神保健福祉士養成セミナー第一巻[増補]精神保健学」、精神保健福祉士養成セミナー編集委員会・編、へるす出版、2009年)
このことから、例え当時の国立武蔵療養所が精神科であっても、脳の外科手術が可能であったと推測します。
また、武蔵療養所に関するWikipediaを見た限りの情報で申し訳ないのですが、
「1940年 傷痍軍人武蔵療養所創設
1945年12月1日 – 厚生省に移管、国立武蔵療養所発足」
とありますので、当時は外傷・心的外傷を含めた総合的な医療(療養)施設であった可能性もやはり0ではないと思えます。
こういったことは、或いは既に調査なされているかも知れないと思いましたが、少しでもお役に立てれば幸いです。
何度も申し訳ありません、出典は「精神保健学」ではなく「精神医学」でした…。
管理人様、伊吹様
ここのブログの内容に驚き、初めて書き込みさせてもらいます。
これまでも関係本を読み、それなりに勉強してきたつもりでした。
以下に、私の感想と疑問を述べさせてもらいます。
(感想)
犯人は看板もあがっていない佐野屋を身代金受取場所に指定してくる程の地元民です。
しかも事件発生の前日4月30日には統一地方選があり、
事件当日は一日中、荒神祭や当選祝勝会で人の動きが多かったと思われます。
こうした中でわざわざ誘拐事件を起こすことは、目撃される危険性も高くなり、
極めて無謀であることは、犯人にもよく判っていたはず。
ということは、犯人像としては日を選べぬほどに切迫して金に困っている人物か、
あるいは日頃から利害関係で対立し怨恨を抱いていた人物のどちらか
とみるのが妥当と思われます。
そして伊吹さんの地道な取材の活動からすれば
怨恨による犯行という見方というのが最も無理のない見立てではないでしょうか。
被害者の遺体が強姦されたことを誇示するかのような状態で埋葬されたのは、
この犯行が家族への報復行為であることのメッセージだったとも考えられます。
とくに上の23からは、被害者家族はインタビューに答えて
自分たちに深い恨みをもつ人物が身近にいることを臭わせており
しかも被害者が行方不明となった初期の(遺体も発見もされていない)段階で
殺害されている可能性を口にしているほどですから、
その敵対している相手が誰なのか(実行犯は別として)判っていたと思われます。
被害者家族がこの事件の真相解明に非協力的な理由は
この事件の真相が判明すれば、自分たちにも大きな不利益が生じるためで
石川さんをスケープゴートにして全てを闇に葬ることを選んだということなのでしょうか。
(疑問)
1.事件直前のN家父親の戸長就任や統一地方選での利害対立はいったいどんな構図だったのでしょう?
2.N家について「いろいろ因縁のある家」「普通の家族じゃなかった」「家族関係が複雑」というのは、
具体的にどのようなことを指しているのでしょう?
3.「長兄がやったんじゃないか」と複数の人が述べており、いくつかの関連本が疑っているのをみても、
少し変わった性格の持主かと想像されます(ただし、そのことと実行犯であることは全く別です)。
N家の家族仲ってどうだったのでしょう?
また戸長の父親よりも、長兄のほうがマスコミでの発言が多く感じられるのは、
そのパーソナリティのせいでしょうか?
もし判っていることがあればお教えください。
長文失礼しました。
1.事件直前のN家父親の戸長就任や統一地方選での利害対立はいったいどんな構図だったのでしょう?
これは現在も、もう一つはっきりしていません。ただ、事件の直前にはN家らが同じ地区内の某共産党員を〝村八分〟にしたことがあって、石川氏の弁護団の中にはそのことと事件の関連を考えていた方もいたようです。
「区長」については、当時の新聞でも「その選挙を巡って相当な確執があった」などと書かれていますが、調べてみると実際にはそんなこともなかったようです。以下、この件に関しては、私の友人・Sさんの某サイトでの書き込みを引用しておくことにします(ご参考まで)。
「事件当時、狭山市には区長が65人いました。これに就くには選挙と言ったような制度はないようで市長もしくは市役所からの依頼で就任するといったような仕組み・制度であったようです。事件の関係で申しますと、昭和35年にはMさん(張り込みに参加したMさんの兄とは違います)。そして、昭和38年には被害者の父親。次の昭和40年にはYさんが区長に就任しています。 区長の持つ利権に事件を絡めて論ずる向きもありますが、市会議員が被害者の住む地域から四人も出ており実力からすれば市会議員の方がはるかに利権に近い位置にあります。開発利権に賛成であれ反対であれ影響力を発揮するにはちょっと違和感を覚える地位なのです」
2.N家について「いろいろ因縁のある家」「普通の家族じゃなかった」「家族関係が複雑」というのは、 具体的にどのようなことを指しているのでしょう?
私もかなり取材を重ねましたが、結局これもよく分からないままでした。なお、その話を最初にしてくれたN家近所の方も、昨年初めに亡くなってしまっています。
ほぼ確実なのは、N家兄弟たちの親が全員同じではない、ということだけですね・・・(「腹違い」なのか「種違い」なのか、また誰がそれに該当するかは不明)。
3. N家の家族仲ってどうだったのでしょう?
また戸長の父親よりも、長兄のほうがマスコミでの発言が多く感じられるのは、
そのパーソナリティのせいでしょうか?
色々な本で「家族仲は良くなかった」などと書かれていますが、実際にはそんなこともなかったようです。これについては被害者も、事件直前の日記で、「(夕食の時)みんなで大笑いした。楽しい生活をしみじみ感じる」云々と書き残しています。
マスコミでの発言は確かに父親よりも長兄氏の方が多いですね。
これに関しては、
①事件直後には、父親がショックで寝込んでしまっていた。
②「自分への怨恨が動機」と考えた父親が、マスコミに出ることを嫌がった(事情を詮索されたくなかった、または相手側に対して衝撃を受けている姿を晒したくなかった、など)。
③父親が「頭がよく冷静な長男の方がマスコミにも無難に対応できる」と考え、彼を前面に出した。
等の理由が考えられるかと思います。
伊吹様
コメントと貴重な情報ありがとうございました。
怨恨説に立つ場合、やはり直前の市議選にまつわる利害対立が
直接的な引き金になっている可能性があるのではないでしょうか。
選挙から時間が経つと、犯行声明でも出さない限り
なぜ事件に巻き込まれたのかN家には判らなくなってしまいます。
それ以外の動機なら人出の多い5月1日に誘拐事件を起こすのは
リスクが大きすぎると考え、別の日を選ぶと思います。
伊吹さんの上の書き込みも読んで、
当時の狭山市の地方政治や勢力関係とN家のかかわりが判れば、
事件の意外な背景が浮かび上がるかも知れないと思いました。
また近所の人たちがN家のことを話すとき、
その特徴として謎めいた家族関係を口にしていることも印象に残ります。
家族仲がさほど悪かったわけでもないとすれば、
これはN家に立て続けに起こった悲劇をうけて
いつしか近所の人たちの間に植え付けられたイメージでしょうか。
あと、長兄に比べて区長だった父親の影が薄く感じる件について、やはり不思議に思うことがあります。
怨恨をもたれるほどの人物であれば、豪腕や狡猾といったイメージを抱きやすいのですが
実際には事件直後に「もう殺されているかも」といって泣いているなど気弱で頼りないような印象も受けます。
(あるいは、怨恨をもたれていたのは長兄ということも考えられるのでしょうか?)
N家の父親像については、これまで狭山事件の関係本でも
ほとんどその人物像が語られてこなかったように思います。
何か取材で判ったことなどあればお教え下さらないでしょうか。
私が思い描く犯人像、犯行動機もだいたい河童さんと同様です。
家族仲が良かったにもかかわらず、「長男がY枝さんを殺した」との噂が地元でも囁かれた理由は今もよく分かりません。この件で昨年亡くなったN家近所の方にインタビューした際のやりとりは、以下のようなものでした。
××さん「でもさ、あの時(=事件発生時)は『長男が(Y枝さん殺しを)やったんじゃないか』って噂もあったんだよ」
―えっ・・・?でもあそこの家は兄弟仲はいいんですよね?
××さん「仲は良かったんだけどな・・・。そういうことじゃなくってさ・・・」
これ以上のことは答えて貰えなかったので、あとは想像するほかないのですが、私は「E作さんと対立していた人間がY枝さんの本当の父親だった」、または「Y枝さんはE作さんが妻以外の女性に産ませた子供で、その一家とN家が対立していた」といったことも考えたりしています。
なお、私はE作さんに対して「気弱、頼りない」といったイメージはあまり持っていません。
戦後、地元政治家と結びついて莫大な資産を一代で築き上げていますし、オモテ・ウラ合わせて豊富な人脈も持っているあたりからしても、やはりあれは「只者ではない」という感じがします。
また、E作さんについて、前述のN家近所の方は次のようにも語っています。
「あの父親は固かった。頑固で固すぎるくらい固い。だからああいう事件が起きたのかもしれねえけどな」
「ガチガチで融通のきかない」人間・・・その性格ゆえに、何か周囲の人間とトラブルになっていたのかもしれません。具体的なことはまだ何も分からないのですが、この言葉の裏にこそ事件の謎を解くためのカギが潜んでいるのではないか、という気もしています。
伊吹様
詳しい情報ありがとうございます。
またこの方面の専門家から犯人像、犯行動機について
だいたい同意見といわれて光栄かつ恐縮です。
N家の家族関係について地元ではわりと広く(C地区にまで)知れ渡っていて
かつほとんどの人が重く口を閉ざすのですから
真相を知れば誰もが「・・・」と黙ってしまうような秘密があるのでしょう。
これが分かれば長兄が疑われた理由も納得できるのかもしれません。
ただ、被害者が「種違い」「腹違い」兄弟であり、
N家がその実の父親や母親の家系と対立関係にあったと仮定した場合、
その敵対一家が怨恨からN家の家族を殺害するとしたら
狙われるのは被害者ではなく長兄なのでは?、と(漠然とですが)思います。
自分と血の繋がった子どもを殺すのは忍びないように感じるので・・・。
これは私の感覚によるものでしょうけれども、一般にはどうでしょう?
「自分と血の繋がった子供を殺すのは忍びない」ということもありそうですが、他方その存在自体が憎悪の対象になる、というケースも有り得るように思います。
ここから先はただの私の空想(妄想)です。
Y枝さんはE作氏がその権力にものをいわせ、妻以外の女性に産ませた子供だった。Y枝さんはその後N家に引き取られそこで育てられることになったが、一方でその女性はY枝さん出産後E作氏に捨てられたor自殺したor出産の際に亡くなったor村にいられなくなった。その女性の家族or夫or交際相手であったX氏はE作氏を深く恨んだ。やがて時は流れ16年後、政治活動や選挙絡みのトラブルから、X氏は地域住民らと対立することになった。E作氏はJ民党との関係や地域を代表する「N家当主」という立場から同調せざるをえず、またX氏を以前よりうとましく思っていたこともあって結局彼を〝村八分〟or追放処分にした。Y枝さん殺しはその直後に起きた事件だった。E作氏はすぐに「Xの仕業だ」と考え、一方村人たちは「長男がX氏と血の繋がりのあるY枝さんの存在自体に困り(または彼女がN家の考える〝汚れた血〟の持ち主だったことから)、仕方なく彼女を始末したのではないか」とも噂した。
事件の2か月ほど前に、養豚場がN家近くから不老川沿いに移転している(N家によって移転させられた?)のも気になるところです。
なお、繰り返しますが上記の話はあくまでも単なる筆者の空想(妄想)です。どうか本気にはなさらないでください。(今思いつきで書いただけの文章ですので、すぐに削除するかもしれません)
管理人様、伊吹様こんばんは。
Y枝さんの日記にある「交歓会」ですが、
入間と群馬はかつて近しい文化圏だったようですね。
下記サイトを北から読み進みますと、今の群馬を含めて入間県だったようですね。
Y枝さんの生きた時代はまだ意識の中に(特に教員世代には)その名残があったのでしょうか。http://s.news.mynavi.jp/c_career/level1/yoko/2013/02/post_3088.html
すみません地元の対立とは直接関係ないですが、この事件は地勢、文化、習俗のようなファクターも絡んでいる気がしましたので、こちらに投稿させていただきました。
訂正です。当該サイトでは「現在の埼玉県のほとんどがまず「入間県」に。その後、「群馬県」と合併して「熊谷県」に! その後、熊谷県がバラされて、埼玉県と群馬県に分割。」と記されています。お詫びして訂正させていただきました。
「郷土史ほりがね」の記述によると、明治2年に版籍奉還に伴い全国で府県制が実施されたものの、
とのことです。
ついでに、「明治初期の各村の所属変更状況」という一覧表があるので引用しておきます。上の記述と一部矛盾していますがすべて原文ママです。いずれにしても、堀兼近辺は前橋や韮山あたりの領地(?)だったこともあるようです。
管理人様。詳細と一覧表を有り難うございます。
N家前から今の場所に移設されてからY枝さん地蔵に献花に行ったことがあるのですが、その際そのお寺の墓地を巡り出来るだけ古そうなお墓は注意して見ました。
OGさん、と同じ苗字のお墓が非常に多く、また同じ苗字のお墓でも富豪を思わせるものと、
質素なお墓があったのが印象的でした。血縁だけではなく地縁と言いますか、ある時期O
村に住んでいる人の多くが一斉にO姓を名乗ったのでしょうか。
話は「作男」に変わりますが先日、取引先の70代の経営者夫妻(関西地区ですが奥様は豪農の出です)に作男の村でのステータスをきいたところ、庄屋クラス敷地内に作男として住まうことは「信用されている」と言う意味にぉいても余所者たる小作人よりステータスは上だったそうです。
その経営者夫人の生家では多い時で12名もの作男が敷地内の離れに住んでおり、10年以上継続している人は親戚並みの親密さであり、大店の番頭さんのように軽量や各種マネージメントも任されていたそうです。しかし、その一方で作男と豪農の娘が結ばれることはなかったとも話しておられました。
上記ご夫人のお話を聞いて、長兄さんの手記の特に後に削除された部分と、次姉さんの古いものの中にも良いものがあると信じたい、事件直後のお父さんの犯人は顔見知り、相手も顔を見れないだろう、という要旨のコメントを想起してしまいました。
N家から見てOGさんが何らかの裏切り、を回避し善に戻ってくれていたらY枝さんが殺されることまではなく済んでいたのに。。。。とも感じました。
管理人様、伊吹様、N家の居住部分の敷地も都会からみると広いですが、事件前に複数人の作男が住んでいたことは無かったのでしょうか?
・N家に「複数の作男が住んでいた」との記事は見た記憶がありませんし、おそらく他にはいなかったと思われます。
・私は、OG自殺直後に中刑事部長が「脅迫状とOGの過去の日記や遺書を比較したところ、かなり似ている点が認められた」と発表している点が非常に気に掛かっているんですよね。。
OGはN家に2年間住み込みで働いていて、その間ずっと生活を共にしていた訳ですから、N家の家族にしても脅迫状を見た時には当然、「OGの字に似ている・・・」と思ったのではないでしょうか?
事件直後にY枝さん父が、「犯人は顔見知り、こっちも顔をみたくないし、相手も見られないだろう」と言っているのは、実はOGのことを指していたのではないか、という気もしています。
・なお、N家長兄氏夫人の実家も、実はOG実家の近所にあります。N家は元々A地区(OGの実家のある地区)とは何らかの繋がりがあったのかもしれません。
但し、やはりOGの単独犯説は成り立たないと思います。
OGはN家家族やPTA会長にも声を知られていますし、直接手渡しの形で身代金を受け取るのは極めて困難です。
彼が単独でそのようなことを行うとしたら、脅迫状にも「身代金は××(指定場所)に置いておけ」と書くはずです。