その他: 「東大合格生のノートはかならず美しい」

去年の10月20日から始めたこのブログもようやく1周年を迎えました。まだちょっと定期更新に復帰できていませんので、リハビリを兼ねてヒマネタを1つ。

「東大合格生のノートはかならず美しい」という本があることを先日知りました。結構売れている(アマゾンで本のランキング13位)ようです。実は私(管理人)はこの本を読んでいません。しかし、このタイトルは2つの意味で間違っていると断言できます。

1つ目の間違いは、「東大合格生」(この日本語もどうかと思いますけど)でも美しくないノートを作る人間が存在するということです。なぜそう断言できるかというと、私(管理人)も20年ほど前に東大に通っていたからです。他の大学でもそうかもしれませんが、文系の東大生というのは授業に出ないことを以て美徳としているような人間が多く、かといって試験で単位を取れないと卒業できないので、試験前になるといろいろな科目の「授業ノート」のコピーが出回り、私を含めて大多数の学生はそれを買って一夜漬けで試験に臨んでいました。そういう、他人が作ったノートのコピーを多数見てきた実感として、そのデキにはピンキリがあり、中には何を書いてあるのか判読に苦しむようなものもありました。字が汚いというのではなく、文章として意味が通じないという意味で。また、そういうワケワカなノートを作る奴に限って他の学生が出席しないような講義にマジメに出ていたりして、そいつのノートが複数科目で出回っているという状況でした。

このあたりの事情については、アマゾンのこの本の評価に鋭い指摘がありました。

また、このような企画で、東大合格生にノートを見せてほしいと言った場合、
ノートがきたない人は、ノートを見せてくれないと思いますよ。
それが「東大合格生のノートが必ず美しい理由」だと思います。

2つめの間違いとして、「東大合格生のノートはかならず美しい」という命題が真であると仮定しても、「美しいノートを作れるようになれば東大に合格する」とは言えない、という論理学的な真理があります。
読んでませんけど(笑)、この本は、「美しいノートを作れるようになれば学力が上がる。象徴的に言えば、美しいノートを作れるようになれば東大に合格できる」という論旨で書かれているのではないかと思います。しかし、

  • 東大合格生のノートはかならず美しい
  • 美しいノートを作れるのに、東大に不合格な生徒がいる

という2つの命題は矛盾しません。{美しいノートを作る生徒の集合}⊃{東大に合格する生徒の集合}であれば、上記の2つの命題は同時に成立します。

実際のところ、「(一般的に見て)美しいノートを作ることができる」という才能は、どちらかというと「他人に対して自分が理解したことを上手に伝えることができる」=いわば「いい教師になれる」才能であって、「学問に対して深い理解や洞察を得られる」才能とは全然別物なんですよね。[[ラマヌジャン]]の名前を持ち出すまでもなく、研究的に素晴らしい業績を挙げている教授が教育者としては必ずしも評価が高くないとかその逆というのは身近でもよくある話で、このあたりは喜劇にも悲劇にもなりえます。

こういう、論理学的には何の意味もないのに一見もっともらしい印象を与える命題というのは、たとえば下山事件の他殺説論者の本とか、狭山事件の判決文なんかにも出てきます。などということをいろいろ考えてしまった次第。

One thought on “その他: 「東大合格生のノートはかならず美しい」”

  1. 久しぶりなコメントになりますが、ある意味本体エントリより面白い記事(失敬)でした(笑)。もうひとつこの記事に小生的に加えさせていただくならば、「美しい」という形容詞の意味、内容は、それを使用する各人によって異なると言うあたりがツッコミ可能でありましょうや。判読不能な文字や文面が「美しい」と思われる場合もあるかも知れません。

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