津山事件: 昭和13年当時の銃規制について

こちらの記事で戦前の銃規制について書きましたが、もっと詳しい記載が『』の守谷芳検事の論文にありましたので、いろいろな方面で参考になるのではないかと思い、引用しておきます。

猟銃が拳銃短銃等と共に銃砲火薬類取締法に所謂非軍用鉄砲の一種であることは同法の解釈上疑がない。然るに同法施行規則は拳銃短銃仕込銃等に就てのみ厳格な規定を設けているが猟銃に就ては何等規定する処がない。従って之が授受運搬等に就ては何等の制限がない。鉄砲火薬商は何人に対しても何等の手続も警戒もなさずに猟銃を譲渡する。而して警察の許可があれば勿論のことだが狩猟期間中狩猟免許証の提示さえあれば、雷管付薬莢は二千発まで、弾丸に使用する火薬は一回に一貫三百匁以内(四、八七五瓩)を自由に販売し得る実情にある。(中略)此の一回の制限量は裕に実弾千発を発射することができる。而して本件犯行に使用された弾丸の鉛の如きは単なる鉛塊であって何等警察取締の対象でない。之を要するに猟銃に対する警察取締は、狩猟免許を為すに際し相当厳重な身許調査を為すこと及一狩猟期間中に於ける使用残火薬は警察官を臨検検査せしむるに止る様であるが之のみを以ては甚不十分であると思う。

銃砲火薬類取締法自体を読む限りでは製造・販売業者のみを対象とするように読めましたが、施行規則の方で拳銃や短銃に関しては個人の購入・所持などにも規定があったようです。しかし、いずれにしても猟銃や、弾丸・薬莢の購入・所持はほとんど野放しで、身分証明書の呈示すら求められませんでした。火薬も、狩猟免許さえ持っていれば1回に5kg近くも普通に購入できたとのことで、戦前の日本で手製爆弾や手製の火砲によるテロ事件が起きなかったのはなぜか、逆に疑問になるくらいです。

守谷検事はこの点について「私は現在の爆発物取締罰則、銃砲火薬類取締法に基く諸法令並狩猟法等では甚不十分で可及的速に猟銃及之に使用する火薬に就て相当厳重な取締規定を制定すべきだと考える」と述べています。
その後、戦前にそのような銃器所持規定の厳格化が行われたかどうか、私(本ブログ管理人)は法学の専門家でないので存じ上げません。ただ、この文章が書かれた1939年(昭和14年)は既に日中戦争が本格化しており、その後中学校でも三八式歩兵銃を使用した軍事教練が課されていくようになっていく時代状況の中では、そのような厳格化は行われなかったのではないかと思います。

いずれにしても、1938年(昭和13年)3月の警察による手入れでいったん銃や火薬、狩猟免許まで取り上げられた後、5月の事件までの2ヶ月程度で睦雄が再武装を完了できた背景には、戦前の日本における銃規制がかなり緩かったことが影響していることは間違いないでしょう。

 

2 thoughts on “津山事件: 昭和13年当時の銃規制について”

  1. 管理人様 お疲れ様です 当時の時代背景が良く解かりますね やはり睦雄時代の流れに呑まれた事件に継るでしょうか・・・

  2. 爆発物や銃器によるテロは戦前無いわけでは有りません。むしろ多い位ですね。大抵は対特定個人です。
    ただ対象が無差別とか刑事犯罪に使われる事が非常に希で、警察官も拳銃など携帯していません。拳銃携帯は戦後からです。銃器刀剣規制もしかり、戦後厳格化しました。凶悪犯罪自体が戦後激増した事もありますが…カナダはアメリカ以上に銃器は普及していますが、アメリカのように発砲・殺人事件が多い訳では有りません。厳格に規制されないと(されても)安心して生活出来ない社会は問題ですね。刀剣類に関しては規制がない国が殆どのようです。
    津山事件は特に異常な事件とは思えません。怨恨による殺人で被害者が多いと言うだけで…。被害者がこれほど多くはないものの同種の事件は少数ではあるが現在もありますね。寧ろ怨みも何もない第三者を手に掛ける、ただ殺したいと言うような事件が多発する現在社会の方が問題ですね。
    また都井は犯行現場の生まれではありませんね。近年、関係者の証言と言うのが報道されましたが、全て被害者側関係者の証言ですね。被害者側の都合の悪い事は言わないでしょう。結果何も悪い事はしてないが、犯人に殺されたと言う事になるでしょう。出生地に住む遠縁の方に聞いた話では、精神異常などではない怨恨による確信犯との事。そう言う証言は表にでてきません。事件後、都井の親戚縁者に対して、差別迫害が有ったことも表には出ませんね。何か言うと後々差し障りがあるので、何も言えないと言うのが現実ではないでしょうか。
    現在で都市生活をしていれば一人二人の被害者で済んだ事かもしれません…。宇都宮の事件のように。

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