津山事件: 横溝正史と津山事件 その1

Yokomizo
『真説 金田一耕助』より

こちらの記事へのコメントで、『八つ墓村』を書いた横溝正史が、いつ津山事件について知ったのかについてご教示をいただきました。ありがとうございます。触発されて『真説 金田一耕助』も購入して読みました。確かに

あれは二十二年の秋か二十三年の春ごろのことだったろう。土地の新聞の主催で県警の刑事部長と対談したことがある。そのときである。ひとりの男が一夜にして、三十人もの男女を銃殺あるいは斬殺したという、世界犯罪史上類例のないこの恐ろしい事件の話を聞いたのは。

と書かれています。上記の画像で引用した部分よりも後ろの方で、「防犯展覧会」で睦雄の犯行時の格好(の想像図)を見たことも書いてあります。

そして、上の画像の後半部分に、刑事部長の発言として

「それが昭和十三年の出来事でしょう。日華事変の起こった翌年のことですから、人心の動揺を恐れて一切報道を禁止したんです」

というものが紹介されています。コメントをいただいたdanさんもご指摘のとおり、中島河太郎氏による横溝正史全集の解説にこれを鵜呑みにした記述が出て、そこから津山事件が起きた当時、報道管制が敷かれて新聞等では報道されなかった、という話になったものと思われます。上の画像にもあるように横溝自身はその後、読者の指摘によってそれを否定していますが、「報道されなかった」説は角川文庫版『八つ墓村』の解説(大坪直行氏)にも孫引きされ、世間一般に広まったようです。

横溝正史が県警の刑事部長と対談したのは上記のとおり昭和22年か23年とのことで、津山事件が起きた昭和13年からまだ10年も経っていない時期であったにもかかわらず、なぜ県警刑事部長がそのような話をしたのかは謎です。しかし、いずれにしても、雑談の中での軽い噂話がいったん文字に記録されてしまうと、それが「事実」として一人歩きしてしまう恐ろしさを、ここでもまた感じます。

このあたりの経緯は以前から気になっていたので、大変参考になりました。また、danさんには横溝正史の息子の横溝亮一氏のコメントなど、より深い情報もご提供いただきました。改めて御礼申し上げます。


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