津山事件: 都井睦雄の墓 その4

IMG_1937雪をかぶった睦雄の墓

久しぶりに津山事件に関する現地行を実施しました。というか現在まだ現地のそばの湯郷温泉にいます。昨日は、ときおり吹雪に近い雪が降る中、都井睦雄の墓を訪問してきました。上の写真は雪をかぶった睦雄の墓です。

IMG_1930 IMG_1932 女性名の墓

今回の現地行で一番確認したかったのがこの墓です。これは、以前のエントリでも言及した、睦雄の両親と祖父母の墓の間にあった女性名のお墓になります。写真では見えにくいかもしれませんが、

大正九年七月十二日亡
都井○○
行年三十才

と書いてあります。

この墓と睦雄、両親、祖父母の墓との位置関係は下の図の通りです。
haka墓の位置関係

大正9年というと、父親が亡くなって睦雄が戸主となった都井家が、倉見を出て加茂の中心部である塔中に移り住んだ年です。ちなみにこの、「都井家が塔中に一時移り住んだ」というのは『津山事件報告書』の姉の証言にも出ていますので、まず事実として扱ってよいものと思います。

以前まとめた祖父・父・母の死亡年月日に付け加えると下記のようになります。

  • 祖父: 大正7年7月18日
  • 父: 大正7年12月21日
  • 母: 大正8年4月27日
  • (女性): 大正9年7月12日

墓の位置関係から考えると、この女性が睦雄の祖父母・両親とかなり近い親類であることは確実でしょう。しかし、死亡年月日が睦雄の両親より後であることや、都井姓であること(事件の被害者に「内妻」が多かったことでもわかるように、当時このあたりでは「足入れ婚」が一般的で、跡取りとなる男子が生まれるまでは妻を入籍しなかったようです)を考慮すると、私(本ブログ管理人)が以前推測したような、睦雄の父の先妻ということはなさそうです。

墓の行年と死亡年月日が正しければ明治24年(1891年)生まれで、睦雄の父の3歳下ということになります。睦雄の父の妹、睦雄から見ると叔母、おばやんにとっての娘にあたるのでしょうか。当時の農家は一般的に早婚だったにもかかわらず、なぜこの叔母(?)が30歳まで実家の都井家にいたのかは不明です。もしかすると、いったん嫁に行ったが子供ができないか病気になって、実家に戻ってきたという可能性はあります。
いずれにしても、大正7年~9年の2年間で睦雄の祖父、父、母(おばやんにとっては夫、息子、嫁)に続いてこの女性(娘?)までも亡くしたことが、おばやんが倉見を出て塔中さらには生まれ故郷である貝尾へ移住することを決心する動機になったと思われます。その意味で、都井家のこの不幸な歴史が津山事件の遠因になったということはできるのではないかと思います。

また、さらに言えば、おばやんが雨が降っただけでも睦雄を小学校に行かせなかったのは、夫、息子、嫁、娘の4人を相次いで結核あるいはインフルエンザで亡くした経験が理由ではないでしょうか。

全く無関係な話題。下の写真は昨日食べた、津山市内の橋野食堂のホルモンうどんです。本当は加茂の水島食堂で食べようと思ってましたが、12・13日は休みだったのでこちらでいただきました。とても美味でした。水島食堂のホルモンうどんと比べるとレバー成分が多い感じですね。前にも書いたように、ホルモンうどんで困るのは、おいしくてビールが飲みたくなるところです。
IMG_1945津山・橋野食堂のホルモンうどん(2玉)

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3 件のコメント: “津山事件: 都井睦雄の墓 その4”

  1. こんにちは。

    今日ふと思い出して、久々に文庫版をひもといてみました。
    姉さんの証言を改めて読んでみたら、両親の死因について、
    「いずれも感冒だったように聞いています」
    と供述要旨で述べられていますね。(文庫版P487行目より)
    感冒=インフルエンザだと考えたなら、合点がいく話です。
    両親は姉さんが5歳の時に死んだ、と供述されていますが、おばやんや親戚、近所の人から聞いた話の他に、5歳だったら自らの記憶にも微かに残る年齢だと思います。

  2. 当時は年齢を数えで勘定していましたから、大正九年(1920)に三十歳で没したのであれば、明治二十四年(1891)生です。満年齢と違って数え年の場合、誕生日に関係なく正月に年を取りますから、明治二十四年生の人は大正九年一年間「三十歳」です。(その後訂正されているかも知れませんが、念のため)。

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