狭山事件: 「プロファイリングで解く重大事件」 その2

まず、事実誤認と思われる点を確認したいと思います。

前後関係から見ておそらく、ここで言及されている「先生」というのは、の中学三年生時代の担任で、事件当日に第二ガード下で被害者を見かけたと証言しているでしょう。被害者の過去の担任でマスコミや事件関係の書籍で採り上げられている「先生」は、この人を除くと高校の先生くらいしかおらず、高校の先生は女性であるために「実話ナックルズ」の記事の文脈から考えて該当しないからです。以下、野間宏『狭山裁判』に叙述されているA先生の証言を中心に検証します。

記事では、「捜査に積極的に協力した先生がいたのではないですか」としています。しかし、A先生は刑札に供述調書を取られたことがありませんし、裁判でも証人として証言したことはありません。そのことは刑札・裁判所側の落ち度かもしれませんが、少なくともA先生が「捜査に積極的に協力した」というのは事実誤認あるいはミスリードと考えます。実際には、協力したくても協力できなかった、というのが正しいところだと思います。

また、A先生に関してはアリバイがあります。
上記の「第二ガード下で被害者を見かけた」という時、A先生は堀兼中野球部の生徒を引率して大会に向かう途中でした(この点については異論もあります……別途後述)。事件当日のA先生の行動は下記の通りです。

  • 県の体育大会の野球の試合が3時30分からあるので、生徒を引率して試合場に向かった。
  • 途中、3時前後に第二ガード下で被害者を見た。声を掛けたが返事はなかった。
  • 試合場に到着し、シートノックを始めたら雨が降り出して試合中止が決定し、そのまま再び生徒を引率して帰った。
  • 帰りに3時30分頃第二ガードを通ったときには被害者はいなかった

A先生自身の証言を信用する限り、当日は試合のため生徒を引率して試合場に向かう必要があり、なおかつ試合時間は3時30分スタートであったことから、被害者と待ち合わせをすることは不可能です。たまたま、当日雨で試合が中止になりスケジュールが空いたから会うこと自体は不可能ではありませんが、事前にそれを予見して待ち合わせすることは予知能力の持ち主でもなければムリでしょう。

さらに、記事の中にはもう一つ事実誤認があります。以下の引用は(日本語としてかなり怪しい部分がありますが)原文ママです。

山学校という、人が住んでいない建物には、男女の密会場所だった可能性が極めて高い。ここは当時、流行の無料のラブホテル代わりだったのでしょう。おそらく犯人は被害者と第2ガードで待ち合わせし、普段使っていた密会場所のここに来るはずだった。

この「山学校」というのは、廃校跡ではありません。調査に伺った際に案内役の方に説明していただいた話では、「山学校」というのは東京の方の有名な学校の先生が住んでいた家があったあたりで、その先生が花嫁修業の習い事のようなことをしていたために地元では通称「山学校」と呼ばれていたもので、上の記事で言うような廃校の建物があったわけではないとのことでした。従って、「山学校」で逢い引きをするために第二ガードで待ち合わせた、ということはありえません。

6 thoughts on “狭山事件: 「プロファイリングで解く重大事件」 その2”

  1. 芳江さんの最終目撃証言でひっかかる点があるんです。OTさんと大島さんは、ひとりで芳江さんを目撃してますよね。A先生は、ひとりではなく野球部員と一緒でした。野球は最低9人いないと出来ないので、A先生は少なくとも、補欠をふくめて9人以上の生徒を堀兼中から、自転車に乗って引率し第二ガードに、さしかかったわけです。そこで東口側に立っている芳江さんを目撃したわけです。人通りの少ない場所に、制服の女子高生がぽつんと立っているわけだから、いやがおうでも目にはいる。ならば引率していた9人以上の生徒にも、当然目に入ったはずです。つまりA先生プラス9人以上の人間が、芳江さんを目撃してるはずなんです。多人数の証言は、ひとりの証言より真実性がはるかに増すので、この多数の目撃証言は、芳江さんの足取りを、いわば確定させることになります。なのに事件後に、A先生もそうだが、この9人以上の野球部員たちの誰一人として、警察に、届けていないんです。同じ野球部員であるOTさんは、ひとりだけでも届け出てるのに。 なぜA先生と9人以上の野球部員たちは、5月1日第二ガードで芳江さんらしき少女を、みんなで目撃しましたと、届け出なかったんでしょうか? OTさんが届け出たことを、野球部員もA先生も聞いたでしょうに。 A先生は後に法廷で目撃証言をするわけですが、ともに目撃したはずの9人以上の野球部員たちのコメントは、47年経っても、まったく出てこない。彼らはなぜ沈黙してるんでしょう。沈黙しなければならない理由が、何かあるとでもいうのでしょうか?

  2. 警告です。

    エル=陥=クメラ=忿竪=ランティ=匿名 様へ

    コメント投稿をいただけるのはありがたいのですが、同一IPからハンドル(名前)を変えて投稿することは世間一般的には「荒らし」と見なされます。貴方の場合文体が独特なのでおそらく読んでいる方も同一人物だと思っていると思いますが、いずれにしてもあまりほめられた行為ではないと思いますので今後はできるだけ同一のハンドルでの投稿をお願いします。

  3. 事件から47年たち、61、2才になっているであろうH中の野球部員たちの、1963年5月1日に関するコメントが、まったく表に出てこない理由。彼らのいわば深い沈黙のわけ。それは何かと考える。そしてひとつの答えが浮かぶ。沈黙とは言えないことであり、それを察して言葉にするなら、おそらく5月1日に関するA先生の証言と、彼らの記憶とが、違うからではないのか。彼らが見て経験した、あの日の記憶を、そのまま話せば、A先生の証言と矛盾をきたすので、何も言えないのではないのか。もし彼らの記憶とA先生の証言がピタッと一致するなら、それは先生の証言の真実性の強化になるんだから、彼らは、どんな取材にも応じいろんなメディアにコメントを寄せたにちがいない。では彼らの、あの日の言えない記憶を察してみよう。A先生の証言では、あの日H中野球部のレギュラーと補欠あわせて9人以上いたであろう野球部員は、先生に引率され、今の入間川東小で、地区大会の決勝戦の後に行われる練習試合に参加する予定であった。この一行には3年のOTさんは加わっていなかった。一行はH中から自転車で佐野屋から続く、山ひとつ越える道を通って線路沿いに出て、第ニガードにさしかかった。そこでA先生は、東側に立っているY枝さんを目撃するのだが、9人以上の生徒は誰ひとりとして目撃しなかったというケースがその一だ。練習試合の予定は確かにあり、相手の中学の名前も覚えてるが、A先生が見たといった制服の少女を、彼らは見なかったというケースだ。先生には見えて彼らには見えない。なら先生が見たのは、Y枝さんのまぼろしだったということになってしまう。
    彼らが正直に、僕らはY枝さんを見ませんでしたと言えば先生と矛盾することになる。
    そのニのケースは、Y枝さんを確かに、みんなで目撃したが野球の試合の予定はなかったというケースだ。先生に引率され決勝戦を見学しにはいったが、試合の予定はなく、したがって対戦相手の中学など、あるはずもないというケースだ。晴れでも雨でも、決勝が終われば帰る予定だったというケースだ。彼らが、試合の予定はなく、見学しにいっただけと、言えばやはり先生と矛盾することになる。そして最後のケースは、彼らはあの日、試合にも見学にも行かなかったというケースだ。OTさんのように個人で行った人はいる。しかし部として行くことはなかった。つまり、先生に引率されて
    行った者は誰ひとりいなかった。

  4. 大変申し訳ありません。私はサイトに投稿するということがいままでなかったのでハンドルネイムをいくつか持つことが荒らしという行為にあたるということを知りませんでした。最初はランティで投稿したんですが、ネイムを変えようとエルを使い、つぎにクメラを使いました。漢字のやつは打ち込み間違いです。ケータイの機能にまだ不慣れなのが原因ですそれから匿名で出してはいないと思います。私もちらっと見てあれっと思ったのです。私がランティで出したものの要約の内容だったと思います。正直、文をかくのに4時間かかったりしたので、ネイムのほうは、その場の感覚でエルとしたりクメラとしたりしあまり意を用いませんでした。一人二役のようになってしまったのならお詫びいたします。意図的に荒らそうとかはまったくありませんでした。私の投稿への経験知のなさが原因です。

  5. 続きです。先生に引率された野球部員は、ひとりもいなかったとすると、彼らに試合の相手の名前を聞いても、答えられるはずがなく、そもそも第二ガードに行ってないんだから、Y枝さんを目撃するわけがありません。
    それじゃ先生は?というと、ひとりで行ったわけです。ひとりで自転車にのり、第二ガードにさしかかり、東口側にたたずむY枝さんを目撃したわけです。先生がひとりなら、先生以外に、彼女の目撃者がいるはずありません。47年経っても第二ガードで彼女を見たという者が、先生以外に誰もいないというのは、先生は、誰も引率していなかった、ひとりだったということを、示しているんじゃないでしょうか。

    あの日
    僕ら野球部員は、試合にも見学にもいってない。したがってY枝さんに会った者は誰もいない。会ったのは先生だけでした。

  6. Mさんには法廷証言があるがAさんにはないんですね。法廷証言と書いてしまったのは訂正します。Aさんのは、野間宏さんの取材に応えた証言ということですね。事件から9年後に出てきたというと1972年ですね。それで初めて活字化され公けになったわけですね。

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