ひょんなことから『資料・下山事件』が安く手に入ったので読んでいると、こんな記述が目に入りました。
森田さんの経営する待合“成田屋”は三越から自動車で二分、歩いてもものの十分とはかからない中央区新川一ノ六で(後略)
新川1-6といえば、私(本ブログ管理人)が現在住んでいる場所から歩いて2分くらいな場所ではないですか…というかそんな基本的なことも忘れてたとは、我ながら情けないところです。
ただ、「三越から自動車で二分、歩いてもものの十分とはかからない」というのはちょっと無理だろうなあ、とも同時に思ったので、一応検証してみました。
森田信についてはその前後の記述を参考にしてください。
下山氏と二十年来の知合いで三越現場付近で待合を営む女将森田信(45)さんを大西運転手につぐ第二の重要参考人として、早朝から本部に出頭を求め事情聴取を行った。この結果、同待合が下山総裁の情報連絡の“アジト”として使用され、同氏はあらゆる階層の人々とひそかに同所で会談していた事実も明らかとなったので、下山氏失踪のナゾはここにひそむものと緊張、出入した人物の内偵に着手した。
話を戻すと、昭和24年当時の中央区新川1-6は、現在の中央区新川1-6とは違う場所になります。というかそもそも、上で引用したp.24の「新川1-6」はどうも間違いのようで、正しくは新川1-8だったようです。
現在で言えば新川1-16になります。
Google Map上での成田屋と三越
試しにここから三越まで歩いてみました。道筋は単純で、道1本先の永代通りを東京駅の方向へ歩き、日本橋の交差点で右折すればすぐ三越です。
日本橋の交差点にあるCOREDO日本橋です。当時は白木屋。下山総裁が「白木屋でも三越でもいい」と言った白木屋です。白木屋と三越の間は歩いて5分、車なら一瞬です。
三越に到着。信号待ちの時間を含まずに18分30秒、信号待ち含めて23分程度でした。当時は信号は少なかったかもしれませんが、それでも「歩いて」10分では着かないとおもいます。
ちなみに、上の方で掲載した昭和22年の地図では、成田屋の前のあたりに小さな川(その名も「新川」)がありますが、この「新川」は昭和23年に埋め立てられてしまっていたようなので、昭和24年の事件当時はこの部分はすでに陸になっていたものと思われます。
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