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狭山事件: PTA会長の証言 その2

東京新聞昭和38年5月4日付朝刊東京新聞昭和38年5月4日付朝刊

サンケイ新聞昭和38年5月4日付朝刊サンケイ新聞昭和38年5月4日付朝刊

前回掲載した週刊文春の記事に関して、「PTA会長がそんなに功名心にはやった目立ちたがりであれば、この証言もでっちあげあるいは誇張が入っているるのではないか?」という疑問(疑惑)をお持ちになる方もいらっしゃるのではないかと思います。しかし、実際にPTA会長がさのヤの張り込みに参加したことは裁判でも本人が証言し、警察等からも否定の言葉は出ていないため事実として間違いないと思われ、さらに言えばA先生が参加していたというのも事実の可能性が高いと思います。

その理由はいくつかあります。

  1. 前回のコメントで伊吹隼人さんに補足していただいているように、PTA会長が5月2日朝の時点で警察から捜査協力を受け、その足でH中学へ行って先生方に「卒業生の筆跡を見せてほしい」などと話をしていたことは多数の証言があり間違いないこと
  2. さのヤ張り込みの翌日、5月3日にA先生とMHくん(PTA会長の息子)が被害者宅にいる写真が残っていること

上の2番目の点で言及した写真を上に再録しました。サンケイ新聞の記事に出ていた写真のキャプションを信用すると、左から以下のように並んでいることになります。

  • A先生(被害者の中学時代の担任、第二ガードで被害者を目撃した人)
  • Mくん(被害者の中学時代の同級生、PTA会長の息子)
  • 長兄
  • 不明。父親か?サンケイ・東京新聞ともキャプションなし
  • 次姉
  • 不明。次兄か?サンケイ・東京新聞ともキャプションなし

この写真を見て、「家族でもない、単にもう卒業してしまった中学の時の担任や同級生が、なんで被害者宅で写真に収まっているのか?」という違和感を感じる方は多いと思います。私もそう感じました。その理由は前日の張り込みからの流れで、MHくんはPTA会長の名代で来ていたと推定するのが一番しっくりくるところでしょう。


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狭山事件: A先生について

被害者の中学時代の担任で、佐野屋での身代金受渡にも立ち会ったA先生は、事件が起きてからかなり後(1970年代)までマスコミや野間宏さんの取材に応じていました。しかし、現在は伊吹さんが電話をしてもまったく取り合っていただけない状況です。私(本ブログ管理人)も一度お電話したことがありますが、奥様らしき方が出られて「そういうお話は全てお断りしています」と言われました。

その理由について、伊吹隼人さんより「1980年代半ば頃に批判的にマスコミに取り上げられたことが原因ではないか」との情報をいただきました。本日の画像はその記事です。

上記引用はすべて週刊新潮1985年3月21日号です。

この記事でのA先生は、日教組系教員のいいなりになっているダメ校長という、かなりひどい書かれ方をしています。この記事がマスコミ不信・取材拒否のきっかけになったのではないかという伊吹さんの説にも頷けるものがあります。

個人的には、この記事もさることながら、昔日は暴力教師として生徒を支配下に置いていたA先生が、日教組系教師の突き上げでその傀儡とならざるを得なくなったことで変に屈折してしまったのではないかなあ、という気もします。
今の人がこの記事を読むと、こんな風に教師が成績を改竄したり、生徒が合格した高校に押しかけて合格を取り消させようとするなんて本当にあるの?と思うのではないでしょうか。しかし、日教組系教師が支配する学校(私が通っていた中学もそうでした)というのは、様々な理不尽がまかり通るところでした。この記事に書いてあるのと似たようなことを実際に私(本ブログ管理人)も経験しましたし、記事に書かれていることはおそらく事実だと思います。
そうなると、それを抑えられないことに対するA先生の鬱屈も相当なものであろうと思われ、それで従来は正義感から取材を受けていたA先生が取材拒否に転じてしまったのではないか、というのが私の推測です。


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狭山事件: 『現地からの報告』 その1


『狭山事件・現地からの報告』 たいまつ社

伊吹隼人さんから、1970年代に「狭山市民の会」が現地でかなり突っ込んだ取材、特に、関係者に対する聞き取り調査をしていたとの情報をいただきました。今回の画像は、その「狭山市民の会」(無実の石川一雄さんをとりもどそう狭山市民の会)が編著者となっている本からの引用です。

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狭山事件: 『現地インタビュー集』について

しばらくリアルの仕事が多忙だったため、更新が滞っていて申し訳ないです。

伊吹さんの『狭山事件 現地インタビュー集』のラストには、『狭山事件を推理する』の著者である甲斐仁志氏の談話をまとめたものが掲載されています。詳細については本をご覧いただくこととして、その中で意外な感じがしたのはA先生に関する記述です。

甲斐氏はA先生に直接取材し、A先生の当時の手帳まで見せてもらってかなり詳しく話を聞いたとのことです。
にもかかわらず、『狭山事件を推理する』においてA先生証言は完全に否定され、

(被害者)との出会いは(引用注、事件当日である5月1日ではなく)4月25日の出来事である可能性が高い

と結論づけられています。

しかし、「4月25日と勘違いしている説」は妥当ではないと考えます。その根拠の一つとしてあげられている

(A先生)の証言は事件当時のものではなく、二審の最終段階での供述である

という記述に対しては、既に伊吹氏がインタビューしたY先生の「事件翌日にはA先生は1日に(被害者)に会ったと言っていた」という趣旨の証言もありますし、A先生の証言も詳細にわたっています。

他方で、伊吹さんの取材・インタビューの結果、A先生の証言の特定の部分に対する信憑性に疑問符がついてきていることは、既に何度か本ブログでもご説明しているとおりです。

  • 当日、堀兼中野球部は試合がなかった
  • 少なくとも3年生は、まだ引退前だったにもかかわらずバラバラに試合を見学に行っていた
  • A先生は「厳しい」先生であり、本当に試合があって引率していたのであれば勝手に現地に行くようなことを許すタイプではない

現時点で、少なくともこれらのことはほぼ「事実」として扱ってよいと思います。

正直なところ、伊吹さんの取材で上記のことが確認されるまで、甲斐氏による「A先生証言は信用できない」という結論を私(本ブログ管理人)は軽視していました。今回のコメントで甲斐氏がきちんと調査した結果としてA先生証言否定説にたどりついたことを知り、「やはり狭山事件は一筋縄ではいかないなあ」ということを改めて痛感した次第です。

そうやって考えていく中で残念なのは、以前はマスコミの取材にも対応していた人たちが現在はこぞって取材拒否となっていることです。具体的には長兄、A先生、長姉です。Mくん(PTA会長の息子)も、昔は被害者宅でマスコミの写真撮影に応じていたことを考えると、その中に含めてもいいかもしれません。伊吹さんの本でも「インタビュー拒否」となっている関係者の方が数多くいらっしゃいます。

関係者の高齢化を考慮すると、ここ10数年が狭山事件の真相解明の最後のチャンスでしょう。2010年になって、1938年に起きた津山事件の都井睦雄と関係があったとされる「ゆり子」さん(2010年現在で94歳)のインタビューに石川清さんが成功したように、どこかで大きなブレイクスルーが得られないものかなあ、と思います。

なお、これまでにコメント欄で伊吹氏ならびに私(本ブログ管理人)からもご説明しているとおり、A先生証言の信憑性に疑問符が付いたからといって一足飛びにA先生犯人説は成立しません。その理由は既にしつこいくらいご説明したとおりです。したがって、本エントリにA先生犯人説のコメントをいただいたとしても黙殺させていただきますので、あらかじめご了承ください。

 

狭山事件: 堀兼中野球部員の証言 その2

伊吹隼人さんから追加の取材報告です。

今回インタビューした相手は、前回の証言とは別の方で、堀兼中3年時に被害者と同学年で野球部員だったSM氏と、その弟のST氏の2人です。

SM氏:

  • (A先生)はとんでもない暴力教師だった。
  • (A先生)は英語教師で、半月前教えたことを覚えていなかったりすると、それだけで殴ったりしていた。
  • 男も女も廊下に並ばせて鼻血が出るまで殴り続けたりしていた。
  • 今だったら絶対に卒業式で〝お礼参り〟されていると思う。
  • 少し前、スナックでたまたま堀兼中の人間と会って喋ったことがあったが、その時も「(A先生)はひどかった」という話が出た。
  • 当時の堀兼中は教師の暴力によって支配されている感じだった。
  • (「(A先生)は嘘をつくようなタイプかどうか」との伊吹さんの質問に)それはどうか分からない。
  • (A先生)は他校に試合に行く時も、怒鳴りながらビシッと生徒を揃えて連れて行く感じだった。
  • 自分もあの頃のことはもう思い出したくない。(A先生)につながるような記憶は思い起こすだけでも不愉快になってくる。
  • 事件のことはいやな記憶なのでもう思い出したくない。
  • 学内には札付きのワルも2~3人いた。
  • (被害者父の「被害者の時の卒業式では酒を飲んで暴れた生徒がいた」との証言を聞いて)そういう記憶はない。ただ、その2~3人ならやってもおかしくない感じだった。
  • それでも、殺人事件をやるほどのワルでは無かったと思う。
  • 当時の堀兼中で男女交際の噂などはなかった。
  • 100人、3クラスしかない学校なので、付き合っている男女などいればすぐに分かったと思う。
  • (「被害者さんはまじめな優等生だったと言われているが…?」との伊吹さんの質問に対して)そうだったと思う。

ST氏:

  • 自分はSMの5歳下の弟。事件当時は堀兼小学校に通っていた。
  • 事件の後は、駐在所の巡査が聞き込みにきた。巡査は今、病院に入院している。
  • 自分はその後教師になった。教育委員会では(A先生)やY先生と一緒になった。
  • 自分も事件に興味を持って調べていたことがあった。親戚が来た時に現場を案内したこともある。
  • 教育委員会を辞める時には、「何か後で役立つかもしれない」と思って、当時の学校の日誌を持って帰って来た。そこには事件当日の野球の試合のことなども書かれてあった。残念ながらそれはボロボロになっていて、「もう使うこともないだろう」と思ったので1週間前に捨ててしまった。
  • 教師の間でも「長兄がおかしい、変だ」という話はあった。「何で脅迫状が届いた時も自分で取らないで弟に取らせるのか」と言っていた。
  • 「被害者宅は家族関係が複雑で、そのため長兄が妹を始末したのではないか」との噂もあった。
  • この付近は、戦後山林を開いて開拓したところ。農地改革の後、小作人上がりの人間たちが開拓にあたった。こちらは貧しく、当時はひどい生活を強いられていた。そのため、最初警察は「そのことに耐えかねたこの地区の人間による犯行ではないか」と疑っていた。

また、伊吹さんによる本ブログへのコメント1コメント2は、この取材を踏まえているものと思います。併せてご参照ください。

以下は私(本ブログ管理人)の感想です。

ST氏について:

  • A先生についてはかなり恨みがあるようで、ここではとても掲載できないような表現で口を極めて罵っています。なお、上記では(これでも)マイルドな部分のみを選んで掲載しています。
  • 個人的な何らかの恨みはあるにしても、A先生のイメージが根底から変わるような証言です。
  • 「(A先生)は他校に試合に行く時も、怒鳴りながらビシッと生徒を揃えて連れて行く感じだった」というのはかなり重要な証言だと思います。A先生が高圧的・暴力的な教師だったという前提に立つと、OTくんやH氏が事件当日にバラバラに試合会場に向かっていたことは、やはり事件当日に堀兼中は試合がなかったことを意味するでしょう。
  • ST氏自身は、事件当日のことは思い出したくないと証言拒否のようです。
  • このA先生像を出発点にすると、A先生証言の意味合いや信憑性も再検討が必要になると思います。

SM氏について:

  • さすがに「(日誌を)1週間前に捨ててしまった」というのは話ができすぎなような気がします。
  • しかし、当時の学校の日誌が実在したとすれば野球の試合については最終決着がついたわけで、惜しい気もします。
  • 最後の証言は、長兄手記にある「農村という古くからの何ものか」を彷彿とさせます。

 

狭山事件: 野球の試合とA先生証言

前回のエントリで、伊吹さんがインタビューしたH氏、当時証言したOTくんとも、まだ野球部を引退していなかったのに、当日は試合に出るためではなく見るために東中へ向かったと証言しています。堀兼中野球部の部員数は不明ですが、当時の堀兼中は1学年3クラスのこぢんまりとした中学であり、3年生が2人もベンチ入りもできないほど競争が激しかったとも思えません。つまり、当日堀兼中学野球部は試合がなかった可能性がかなり高いと思います。

そうなると、A先生の証言の信憑性が疑われてきます。
まず、A先生の証言を確認しましょう。ただし、ご存じの通り、A先生は公判の証人としては呼ばれていないため、野間宏さんの『狭山裁判』から、野間さんの取材に対してA先生が話した内容の引用です。

(A先生)はこの日、県の体育大会の野球の試合が三時半にあり、それに間に合うように生徒を引率して、三時前後、この第二ガードの前を通りかかった。そして、ガードの入り口の向かって左側のところに、うつむき加減に立っている(被害者)を見つけた。
普段とは様子がちがう。ふだんの(被害者)さんなら、元気で、むこうから声をかけてくるはずである。「どうしたの」とこちらから声をかけた。するとはにかんで、足で石をつつくような仕草をした。そして何もいわない。言葉はかえってこなかった。いつもなら、はっきりと「……してるんです」というほうであるのに、なんの返事もなかった。その仕草で誰か人を待っていたのかなと、わたしには考えられると、(A先生)はいった。

(中略)

(A先生)はガード下の(被害者)さんをそのままにして、時間におくれないようにと試合場に向かった。雨がぽつぽつ降りだし、シートノックをはじめたら、雨で試合は不可能であると中止に決定、ふたたび生徒を引率して三時半頃、帰りにそこを通ったのだが、すでに(被害者)さんはそこにはいなかった。

このA先生の証言が事実でないとすると、狭山事件の真犯人推理という点からはかなりオオゴトになります。

  • 第二ガードでの被害者の待ち合わせがなかったことになると、目撃証言のつなぎ合わせによる被害者の足取りが全く異なってくる
  • A先生はなぜそのようなウソをついたのか。伊吹本にもあるように、A先生は上記の内容を事件の翌日(5月2日)には同僚の先生に話しており、その時点で記憶違いが発生するとは考えられない。そうなると故意のウソということになるが、なぜそのようなウソをついたのか。さらに、事件から12年たった時点の野間氏のインタビューに対しても同じウソを続けたのはなぜか。
  • 実際のところ、A先生証言はどこまで信頼できるのか。全部がウソなのか、一部だけがウソなのか。

まずは、A先生の証言がどこまで信頼できるのか、から考えてみたいと思います。A先生証言を分解して考察してみます。ただし、この考察は現時点での私の個人的な考えです。

  証言 考察
1. 県の野球試合に出場するために これはほぼ確実にアウト。試合がなかったことは現時点ではほぼ確実といっていいと思います。しかし、「シートノックをはじめたら」など奇妙に具体的な描写もあり、A先生の意図がどこにあるのか、微妙なところです。
2. 野球部の生徒を引率して 少なくともH氏とOTくんの2人は先生と同行していなかったことを証言しています。しかし、彼ら以外の生徒がA先生に同行していた可能性はまだあります。私の脳内妄想的可能性としては、A先生は「とりあえず一度は東中に試合を見に行け。もし先生と一緒に行けるなら一緒に行け」と野球部員に通告していて、下級生は素直に先生に引率されたが、3年生は既に敗退していたこともあってアホらしくて遊んでから個々に遅れて東中に向かったという可能性を考えています。
3. 三時前後に この時間にも疑問が残るところです。決勝戦が終わったのは遅くとも3:40頃と思われ、3時に第二ガードを通っていたのでは試合の後半しか見ることができません。
4. 第二ガードで被害者と出会った A先生証言の中核となる部分です。もしこれが事実でないならば、A先生証言には何の意味もないことになり、全部を無視してかまわないことになります。しかし、しつこいようですが、A先生は事件の翌日に事件のことを聞くと、すぐに同僚であるY先生に被害者に会ったということを話しており、伝えられるA先生の性格からも、たとえば目立つためにこういうウソを言ったということは考えにくいと思います。そもそも、目立つためにこのようなことを言い出したのであればその後マスコミ等に売り込みに行くはずですが、そういった動きも見られません。
5. 雨で試合が中止になり、三時半に 3.と同様に、この時間経過は多少疑問が残ります。記録によると、3:26~3:39まで小雨が降ったようですがすぐやんでおり、その後4:20に本降りになるまでの間はほとんど雨が降っていません。
6. 学校に戻る途中には第二ガードに被害者はいなかった 4.と同様です。

要約すると、試合があったこと、生徒を引率していたことは事実ではなさそうですが、だからといって第二ガードで被害者に会ったことまで否定するのは尚早ではないかというのが現時点での私の考えです。

 

狭山事件: 堀兼中野球部員の証言

身辺多忙のため、放置状態になったり変な英文が上がったりしていて申し訳ないです。

コメントの方で当日の野球試合と被害者の足取りについて、伊吹さんにいろいろと解説をしていただいています。その議論についてまとめる前に、前提となる情報として伊吹さんから当時の堀兼中野球部員にインタビューをした証言をいただいていますので、まずそれを掲載させていただきます。

以下は、事件当時堀兼中3年生で野球部員だったH氏に対して、伊吹さんが2010年12月17日にインタビューした内容です。本件、実は昨年末に伊吹さんからいただいていたのですが、取扱に迷っていたのとちょっと身辺多忙だったため掲載が遅くなりました。お詫び申し上げます。

  • 事件の日、堀兼中野球部は試合の予定はなかったと思う。
  • 自分もその日は東中に出かけたが、何のために行ったのかは全く覚えていない。
  • A先生と一緒に(引用注、東中に)出かけたわけではない。
  • (「第二ガード証言」の話を聞いた後で)A先生がすぐにバレるようなウソをつくとは思えない。A先生が「試合のために東中に行った」と行っているのなら、或いはそうなのかもしれない。
  • (「A先生証言によれば当日の堀兼中の試合開始予定は3時半だった」という説明を聞いた後で)3時半から試合開始というのは遅すぎると思う。
  • OTや自分は当時3年生だったが、夏前なのでまだ部活は引退していなかった。
  • 当日のことは時間、天候等について何も覚えていない。
  • インターネットで、自分と他の野球部員2名が堀兼中校長宅で警察に事情聴取されたことになっている話を見たが、それを見ると「そういうこともあったかな」という感じ。警察に何かを聞かれたという記憶はある。自分を含めた3名だけが呼ばれた理由はわからなかった。
  • 警察には、「東中に行く途中」ではなく「帰り道で被害者に会わなかったか」と聞かれたと思う。
  • 警察に話を聞かれた他の2人のうち、1人はもう亡くなっている。1人は川越に転居している。
  • 被害者のことはもちろん事件前から知っていた。たかだか100人程度、3クラスの学校で小中ずっと一緒に過ごすのだから、ほとんどの人のことは自然に覚えてしまう。被害者は学校でも目立つ存在だった。
  • 当時、駅方面に出かけたこともほとんどなかった。事件の日にどの道を通って東中に行ったのかも記憶していない。
  • 事件後も学級内や野球部内で事件のことが話題になったことはなかった。
  • ただ、校庭がヘリコプターの発着場になったのでみな騒いでいた。友人とそれを見に行った思い出はある。

この中では、「OTや自分は当時3年生だったが、夏前なのでまだ部活は引退していなかった」という証言が最も重要でしょう。事件当日の細かいことは忘却の彼方であっても、こういう大きなくくりでの日程感は年数が経っても間違えようがないと思います。まだ引退していなかったH氏が事件当日に試合をした記憶がないこと、同じく現役野球部員だったOTくんも、試合をするためにではなく試合を見るために遅れて東中に行っていることから、当日堀兼中は試合がなかったことはほぼ確実と言ってよいと思われます。そうなると、A先生の証言の、少なくとも一部については信憑性に疑問符が付くことになります。

 

狭山事件: 『狭山事件 -46年目の現場と証言』アマゾンに登場

かなり時間がかかりましたが、ようやくアマゾンにも登場しました。

再版になった場合でもかなり手が入ると思われますので、今のうちに是非。

3月14日追記:と思ったらあっという間に在庫なしになっちゃいました。売り切れかな?

3月15日追記:出品しているのは今のところ1店舗だけですが、アマゾンの中古市場がえらい高騰しているようです。個人的には本の内容からすればこの価格でも高くはないと思います。実際、私は甲斐本をこのくらいの値段で買いましたから(笑)。しかし、伊吹氏ご本人の言葉でも再版を考えているという話がありましたので、明日中に読まないと死んじゃうという方以外は再版を待った方がいいかもしれません。ただし、同じくご本人より再版になる場合には仮名化などかなり手を入れたいというご意向もあるようなので、初版がほしい場合には今のうちに店頭在庫を探すか、多少高くても早めに古本市場をあさった方がいいかもしれません。

狭山事件: 『46年目の現場と証言』 その5

発売告知が出ました。嫁を質に入れてでも購入してください。

伊吹隼人著「狭山事件ー四十六年目の現場と証言」
定価1,800円(内税)
2月25日発売
出版社は風早書林
2月18日より直販予約受付開始となります。
「購入部数・お名前・連絡先電話番号・住所」を記入の上、
FAX 048-464-8505
Eメール kazahayashorincc@yahoo.co.jp
で申し込んで頂ければ、送料・郵便振替手数料(会社側負担用紙を同封)無料で直送されます。
書店の店頭に並ぶのは3月1日頃からになると思います。
アマゾン等で出る日は不明です(通常少し遅れる模様)。