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狭山事件: 地元における対立構造
2011 年 12 月 1 日 木曜日伊吹隼人さんから、「区長について その2」エントリへのコメントをいただきました。ただ、コメントとして掲載するには内容が重大すぎると思いますので、新規記事として掲載させていただきます。伊吹さんからも「さまざまな方々のご意見も是非お伺いしてみたい」とのことですので、些細なことでも結構ですのでご意見・ご質問をいただけると幸いです。
なお、下記には今回初公開の内容が含まれています。これらの内容は伊吹さんならびに協力されている方々の取材によって判明した事実に基くものであることを申し添えます。
事件と当時の村内の対立、N家をめぐる事情についてまとめてみました。ここからは果たしてどのような推理が可能になるでしょうか?さまざまな方々のご意見も是非お伺いしてみたいと思っています。宜しくお願いします。(伊吹)
- 昭和8年~9年頃? 被害者の母親のMさんが川越市中福のA家からN家に嫁いだ。A家は中福を代表する大農家の一つ。嫁いだ日の翌朝、N家の庭には〝嫌がらせ〟として墓を模した大きな「土まんじゅう」が造られてあった。美人であったMさんに恋焦がれていた者の犯行とも噂されたが、結局犯人は分からずじまいであった
- N家は戦後、闇野菜で大儲けし、地域を代表する農家にのし上がったといわれている(※後述の通りN家は地元政治家との関係も深く、闇野菜の扱いに関してもその力添えがあったという噂もある)
- 昭和22年、農地改革があった年に被害者が誕生。N家の近隣住民によれば、「N家も、母親の実家のA家も、いろいろ因縁のある家だった」「家族関係が複雑だった」「普通の家族じゃなかった」
- 亀井(荻原調査)本によれば「(被害者宅には)種違い(または腹違い)の噂もあった」
- 野間本によればA先生(被害者の中学3年時の担任)曰く、「変わった家庭だった」
- 上赤坂某地区(以下「C地区」とする)の住民によれば、「N家は複雑な家庭だった」
- N家では被害者と末弟・T君のみ、なぜか名前で共通の字が使われていない
- 昭和22年から食糧増産および農家次男・三男対策、引揚者対策として、上赤坂C地区の山林開拓の話が持ち上がった。N家を含むC地区山林所有者たちや当時の堀兼村長(諸口会三氏=被害者の同級生・諸口高男氏の父)らが猛反対。しかし、結局山林開拓が決定、N家らは広大な自己所有林を手放すこととなった。
- 昭和24年に20名がC地区に入植。そのうち3名は被害者の母・Mさんの実家近所の住人
- 山林開拓は困難を極め、入植民たちは「食うや食わずの」生活をしていた。「まともな生活が出来るようになったのは昭和40年代から。電気が引かれたのは昭和29年、水道が引かれたのは昭和39年だった」(C地区の住民)
- 同じC地区内でも地元出身者(Mさん実家の近所の出身者)と他地区からの入植者(満州や沖縄からの移住者を含む)との間では仲が良くなかった。地元出身者は実家から援助もして貰える立場で生活に不安がなく、他の入植者とは意識が異なっていた。
- 上赤坂地区内において入植民(C地区を含む)や小作人上がりの自作農民は蔑まれており、江戸期からの開拓民(N家を含む)たちから差別されていた。入植民や小作人上がりの者たちには何の発言権もなかった。部落差別とは別の、いわばもう一つの〝差別〟があった。
- C地区の子供たちも当時堀兼小学校では「よそ者」として蔑まれていた。その頃小学校に通っていた者は、今でも同窓会に出席しようとしないという。当時、学校内ではC地区内の子供たちだけで団結していた。その団結力の強さにはかなりのものがあった。
- 江戸期開拓民と小作人上がりとの対立は長く続いた。これは、決して今も解消されていない。ただし、C地区を含む入植民との対立は現在ほぼ皆無となっている
- 昭和28年に被害者の母親のMさんが死亡。死因は脳腫瘍とされているが「毒殺された」との噂もある。収容されたのはなぜか遠方にあって精神科中心の国立武蔵療養所(現在の国立精神・神経医療研究センター)
- 事件の頃は日本が高度成長期にあり、上赤坂近辺でも道路・河川などの開発・改修工事が盛んに行われていた。地価も急激に高騰しており、農家の中には土地を売却して多額の現金収入を得ようとする者もいた。ただし、売却にあたっては市街化調整区域指定など様々な障害があり、当然ながら調整区域の指定にあたっては「区長」を含め様々なレベルでの「政治」の介入が噂された
- 昭和38年3月頃?I養豚場が上赤坂・M氏宅裏手から不老川沿いに移転
- 同年3月~4月頃?被害者の父が上赤坂地区(78戸)の区長に就任。この区長選を巡っては内部で相当な確執があったとされる
- 同年4月30日は統一地方選挙で、その一環として狭山市議会選挙があった。N家がある旧・堀兼村の定員は4人で現職は自民党3、共産党1。自民党現職1名は引退したが、現職3名・新人3名が立候補し、選挙の結果、自民党が4議席を独占することになった。市議会全体では定数30で、改選後は自民と保守系無所属で27、社会党2、共産党1
- 同年5月1日、事件発生
- 警察は事件発生当初、C地区の住民を真っ先に疑った。数日後からは養豚場中心の捜査に切り換えた、とされる
- 「怨恨による犯行の可能性あり」とのことで、警察はC地区とともに被害者の母・Mさんの実家および周辺も捜査した
- N家長兄はインタビューに対して、「『おそらく顔は知ってる人じゃないか』っていうことは父ははっきりと言いました。だから、『犯人が捕まっても写真も見たくないし、犯人とも会ってみたくもない』って父は言っています」「(父は)『犯人の方でも、私の顔を見られないだろう。よく知っている人に違いないから』と言っております」と発言
- N家近所の某氏によれば、「あの時は『長兄がやったんじゃないか』という噂が立った」
- 被害者母校の某教諭は、事件の時すぐに長兄の犯行を疑った(某教諭は被害者宅近くに親戚あり)
- 上赤坂C地区の住人によれば、「事件の時は『(家族関係が複雑だったため)長兄が妹を始末したのでは』との噂が立った」
- N家は事件当時、被害者の母親・Mさんの実家がある川越市中福にも畑を持っていた(現在は川越市に売却済み)
- 平成15年、C地区の開拓に反対した(上記8.)諸口会三元村長の息子・諸口高男氏(被害者の堀兼小・中学校時代の同級生)が自民党の県議となる。N家長兄も高男氏後援会の中心人物の1人だった
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狭山事件: 川越高校入間川分校について
2011 年 7 月 9 日 土曜日狭山事件: JRCについて
2011 年 7 月 3 日 日曜日川越高校入間川分校関係を改めて調べていたら、ちょっと面白い記事を見つけたのでご紹介します。
画像で公開されている被害者の日記に以下のような記述があります。
4月29日 晴 22℃ 群(実際には馬へんに羊)馬県南毛地区対埼玉県の交歓会。会場は伊勢崎工業高校だった。南毛の皆さん二○○名 埼玉県の皆さん二○○名 計四百名近くの楽しいためになる交歓会だった。
(大きく間が空いて)
今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに。午前七時、川越に向かった。今日はJ.R.Cのことでバスで群馬県に行くのだ。
この「JRC」は、以前から推測されていたように、やはり「Junior Red Cross」で間違いないようです。
狭山事件: 被害者の日記 その7
2011 年 6 月 11 日 土曜日
毎日新聞 昭和38年5月14日付に掲載された「女性自身」5月20日号の広告より 被害者の日記
こちらのコメントで、被害者の5月1日の日記について、別の画像が掲載雑誌の広告の形で掲載されているという情報をいただきました。本日の画像はその確認です。情報ありがとうございました>米子様
正直なところ、私もこの画像の存在は知りませんでした。また、該当のコメントでご指摘いただいているとおり、被害者氏名のゴム印と被害者姓の印鑑が押されています。これがもともとあったものなのか、刑札で整理の都合上押したものなのかも全く不明です。
刑札が資料整理の目的で被害者の姓名印や印鑑を押すとすれば、普通は日記の最初のページか表2対向あたりであろうと思われ、わざわざ5月1日のページに捺印するとも考えにくいところです。ただし、5月1日が事件当日であったことを考慮すると、そこに刑札が何らかの書き込みをすることも考えられなくはありません。
もしこのゴム印と印鑑が被害者自身が押捺したものとすると、どのような意図があったのでしょうか。日記の内容から考えると、誕生日を迎えて大人へとまた一歩近づいたことで、改めて自分自身を確認したいというような意図でしょうか。真意は今となっては誰にもわかりませんが、興味深いところです。
このゴム印と印鑑を押し、「誕生日、うれしい」と書いたとき、被害者は将来への希望に満ちていたことでしょう。その未来を奪った真犯人には、やはり怒りを禁じ得ません。
狭山事件: 野球の試合とA先生証言
2011 年 3 月 21 日 月曜日前回のエントリで、伊吹さんがインタビューしたH氏、当時証言したOTくんとも、まだ野球部を引退していなかったのに、当日は試合に出るためではなく見るために東中へ向かったと証言しています。堀兼中野球部の部員数は不明ですが、当時の堀兼中は1学年3クラスのこぢんまりとした中学であり、3年生が2人もベンチ入りもできないほど競争が激しかったとも思えません。つまり、当日堀兼中学野球部は試合がなかった可能性がかなり高いと思います。
そうなると、A先生の証言の信憑性が疑われてきます。
まず、A先生の証言を確認しましょう。ただし、ご存じの通り、A先生は公判の証人としては呼ばれていないため、野間宏さんの『狭山裁判』から、野間さんの取材に対してA先生が話した内容の引用です。
(A先生)はこの日、県の体育大会の野球の試合が三時半にあり、それに間に合うように生徒を引率して、三時前後、この第二ガードの前を通りかかった。そして、ガードの入り口の向かって左側のところに、うつむき加減に立っている(被害者)を見つけた。
普段とは様子がちがう。ふだんの(被害者)さんなら、元気で、むこうから声をかけてくるはずである。「どうしたの」とこちらから声をかけた。するとはにかんで、足で石をつつくような仕草をした。そして何もいわない。言葉はかえってこなかった。いつもなら、はっきりと「……してるんです」というほうであるのに、なんの返事もなかった。その仕草で誰か人を待っていたのかなと、わたしには考えられると、(A先生)はいった。(中略)
(A先生)はガード下の(被害者)さんをそのままにして、時間におくれないようにと試合場に向かった。雨がぽつぽつ降りだし、シートノックをはじめたら、雨で試合は不可能であると中止に決定、ふたたび生徒を引率して三時半頃、帰りにそこを通ったのだが、すでに(被害者)さんはそこにはいなかった。
このA先生の証言が事実でないとすると、狭山事件の真犯人推理という点からはかなりオオゴトになります。
- 第二ガードでの被害者の待ち合わせがなかったことになると、目撃証言のつなぎ合わせによる被害者の足取りが全く異なってくる
- A先生はなぜそのようなウソをついたのか。伊吹本にもあるように、A先生は上記の内容を事件の翌日(5月2日)には同僚の先生に話しており、その時点で記憶違いが発生するとは考えられない。そうなると故意のウソということになるが、なぜそのようなウソをついたのか。さらに、事件から12年たった時点の野間氏のインタビューに対しても同じウソを続けたのはなぜか。
- 実際のところ、A先生証言はどこまで信頼できるのか。全部がウソなのか、一部だけがウソなのか。
まずは、A先生の証言がどこまで信頼できるのか、から考えてみたいと思います。A先生証言を分解して考察してみます。ただし、この考察は現時点での私の個人的な考えです。
| 証言 | 考察 | |
|---|---|---|
| 1. | 県の野球試合に出場するために | これはほぼ確実にアウト。試合がなかったことは現時点ではほぼ確実といっていいと思います。しかし、「シートノックをはじめたら」など奇妙に具体的な描写もあり、A先生の意図がどこにあるのか、微妙なところです。 |
| 2. | 野球部の生徒を引率して | 少なくともH氏とOTくんの2人は先生と同行していなかったことを証言しています。しかし、彼ら以外の生徒がA先生に同行していた可能性はまだあります。私の脳内妄想的可能性としては、A先生は「とりあえず一度は東中に試合を見に行け。もし先生と一緒に行けるなら一緒に行け」と野球部員に通告していて、下級生は素直に先生に引率されたが、3年生は既に敗退していたこともあってアホらしくて遊んでから個々に遅れて東中に向かったという可能性を考えています。 |
| 3. | 三時前後に | この時間にも疑問が残るところです。決勝戦が終わったのは遅くとも3:40頃と思われ、3時に第二ガードを通っていたのでは試合の後半しか見ることができません。 |
| 4. | 第二ガードで被害者と出会った | A先生証言の中核となる部分です。もしこれが事実でないならば、A先生証言には何の意味もないことになり、全部を無視してかまわないことになります。しかし、しつこいようですが、A先生は事件の翌日に事件のことを聞くと、すぐに同僚であるY先生に被害者に会ったということを話しており、伝えられるA先生の性格からも、たとえば目立つためにこういうウソを言ったということは考えにくいと思います。そもそも、目立つためにこのようなことを言い出したのであればその後マスコミ等に売り込みに行くはずですが、そういった動きも見られません。 |
| 5. | 雨で試合が中止になり、三時半に | 3.と同様に、この時間経過は多少疑問が残ります。記録によると、3:26~3:39まで小雨が降ったようですがすぐやんでおり、その後4:20に本降りになるまでの間はほとんど雨が降っていません。 |
| 6. | 学校に戻る途中には第二ガードに被害者はいなかった | 4.と同様です。 |
要約すると、試合があったこと、生徒を引率していたことは事実ではなさそうですが、だからといって第二ガードで被害者に会ったことまで否定するのは尚早ではないかというのが現時点での私の考えです。
狭山事件: 堀兼中野球部員の証言
2011 年 3 月 5 日 土曜日身辺多忙のため、放置状態になったり変な英文が上がったりしていて申し訳ないです。
コメントの方で当日の野球試合と被害者の足取りについて、伊吹さんにいろいろと解説をしていただいています。その議論についてまとめる前に、前提となる情報として伊吹さんから当時の堀兼中野球部員にインタビューをした証言をいただいていますので、まずそれを掲載させていただきます。
以下は、事件当時堀兼中3年生で野球部員だったH氏に対して、伊吹さんが2010年12月17日にインタビューした内容です。本件、実は昨年末に伊吹さんからいただいていたのですが、取扱に迷っていたのとちょっと身辺多忙だったため掲載が遅くなりました。お詫び申し上げます。
- 事件の日、堀兼中野球部は試合の予定はなかったと思う。
- 自分もその日は東中に出かけたが、何のために行ったのかは全く覚えていない。
- A先生と一緒に(引用注、東中に)出かけたわけではない。
- (「第二ガード証言」の話を聞いた後で)A先生がすぐにバレるようなウソをつくとは思えない。A先生が「試合のために東中に行った」と行っているのなら、或いはそうなのかもしれない。
- (「A先生証言によれば当日の堀兼中の試合開始予定は3時半だった」という説明を聞いた後で)3時半から試合開始というのは遅すぎると思う。
- OTや自分は当時3年生だったが、夏前なのでまだ部活は引退していなかった。
- 当日のことは時間、天候等について何も覚えていない。
- インターネットで、自分と他の野球部員2名が堀兼中校長宅で警察に事情聴取されたことになっている話を見たが、それを見ると「そういうこともあったかな」という感じ。警察に何かを聞かれたという記憶はある。自分を含めた3名だけが呼ばれた理由はわからなかった。
- 警察には、「東中に行く途中」ではなく「帰り道で被害者に会わなかったか」と聞かれたと思う。
- 警察に話を聞かれた他の2人のうち、1人はもう亡くなっている。1人は川越に転居している。
- 被害者のことはもちろん事件前から知っていた。たかだか100人程度、3クラスの学校で小中ずっと一緒に過ごすのだから、ほとんどの人のことは自然に覚えてしまう。被害者は学校でも目立つ存在だった。
- 当時、駅方面に出かけたこともほとんどなかった。事件の日にどの道を通って東中に行ったのかも記憶していない。
- 事件後も学級内や野球部内で事件のことが話題になったことはなかった。
- ただ、校庭がヘリコプターの発着場になったのでみな騒いでいた。友人とそれを見に行った思い出はある。
この中では、「OTや自分は当時3年生だったが、夏前なのでまだ部活は引退していなかった」という証言が最も重要でしょう。事件当日の細かいことは忘却の彼方であっても、こういう大きなくくりでの日程感は年数が経っても間違えようがないと思います。まだ引退していなかったH氏が事件当日に試合をした記憶がないこと、同じく現役野球部員だったOTくんも、試合をするためにではなく試合を見るために遅れて東中に行っていることから、当日堀兼中は試合がなかったことはほぼ確実と言ってよいと思われます。そうなると、A先生の証言の、少なくとも一部については信憑性に疑問符が付くことになります。
狭山事件: 「腹違い」と「種違い」
2010 年 9 月 12 日 日曜日亀な紹介ですいません。以前にとりあげた「被害者は腹違いではなかったか」という質問が裁判で出てきたことに関して、「狭山事件を推理する」サイトにて「おそらくは根拠のない噂レベル」という話が出ています。
『続無罪の新事実』の記述を確認しましたが、確かに亀井氏自身が「僕のある記事にヒントを得て」と明記しています。そもそも亀井本は事実関係にかなり疑義があることはこれまでも本ブログで見てきたとおりです。さらにこの部分は、「狭山事件を推理する」サイト管理人氏も指摘しているとおり、いわゆる「荻原文書」の受け売りであると思われます。したがって、信憑性はほぼゼロといっても差し支えないでしょう。
そういうわけで、今後何か新事実が出てこない限り、この「被害者は腹違い(種違い)」という話は、狭山事件真犯人推理の上ではガセネタとして扱うべきであると思います。
狭山事件: 新伊吹本: 被害者の呼び出しについて その3
2010 年 3 月 16 日 火曜日前回のエントリに伊吹さんからいただいたコメントを読んで、一つ重要なことを書き忘れたことに気がつきました。
4月29日の日記でもう一つ、「今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに」も気にかかっています。
- 当時の狭山工業高校は男子校だったようで、女子高生である被害者が何のために誰を訪れる予定だったのか
- この呼び出し/待ち合わせはどうやって伝えられたのか
- そもそもこの伏せ字になっている「××××」は何(あるいは誰)なのか
- 刑札はこの「予定」について裏付け捜査をしたのか。したのであれば記録は残っていないのか
などなど、疑問は尽きないところで、情報が少なすぎて推理すらできません。
当初「狭山工業高校の××××」に行く予定だったのが学校行事で行けなくなったとすると、被害者の方から「ごめんなさい、行けなくなりました」という連絡をしたと思われ、その際に「じゃあ、5月1日に待ち合わせて…」という話になった可能性もあります。しかし、そうなると(しつこいようですが)なぜ5月1日の待ち合わせを日記に書いていないのかという疑問が残ります。
伊吹さんのご指摘のように事件前日の4月30日分が公開されていないことを含めて、前後の日記に何かしら事件と関係ある記述があったのではないかという気がします。一刻も早い全面的な開示を望みます。
狭山事件: 新伊吹本: 被害者の呼び出しについて その2
2010 年 3 月 14 日 日曜日前回の続きです。
第一ガード・第二ガードにおいて目撃された際の状況から考えて、当日被害者が誰かと待ち合わせしていたことはほぼ確実と思います。しかし、当時の女子高生が全然関係ない人に呼び出されてそれに応ずることはまずないとも思います。また、前回も書きましたが(新伊吹本でも指摘されていますが)、当時はケータイも出会い系もありません。知人に事前に呼び出されていたとすると、考えられる可能性は下記の通りになります。
- 家族: 前回書いた長兄説など。(以下3月16日追記)コメントで伊吹氏からご指摘をいただいているように、この可能性は低いと私(管理人)も考えます。あくまで可能性ということで列記しています
- 学校: 川越高校入間川分校別科のクラスメイト16人(1クラスのみ)は全員女子であり、しかも4月に入学したばかりでまだ数週間しかたっていない状況でした。その中で誰かが被害者とそのような待ち合わせの話をしていれば、何かの形で他の生徒にも伝わると思われるため、この可能性は低いと思います
- 登下校(通学路): 新伊吹本にあるように、被害者は朝、近所の高校生(中学時代の同級生)と一緒に登校することがあったとのことです。そのメンバーの誰かであれば、待ち合わせを伝えることは可能という伊吹氏の指摘に同意します
- 出身中学関係: 被害者は出身中学に時々遊びに行くことがあったようです。その際に昔の同級生と会って伝言されることが考えられます
- 学校行事関係: 日記を見ると、事件の直前の4月29日(月曜日、天皇誕生日(当時))にも被害者は学校行事に参加して群馬へ行っています。その際に待ち合わせについて話をした可能性はあると思います
上の5.について、4月29日の日記には以下のような内容があります。
4月29日 晴 22℃ 群(実際には馬へんに羊)馬県南毛地区対埼玉県の交歓会。会場は伊勢崎工業高校だった。南毛の皆さん二○○名 埼玉県の皆さん二○○名 計四百名近くの楽しいためになる交歓会だった。
(大きく間が空いて)
今日は狭山工業高校の××××を訪れる予定だったのに。午前七時、川越に向かった。今日はJ.R.Cのことでバスで群馬県に行くのだ。
川越から伊勢崎まで約60km、関越自動車道(1971年開通)がない当時の道路事情では、バスで片道2時間程度でしょうか。そのバスの中で、他校に行った中学時代の同級生と会って「誕生日にお祝いをしよう」と誘われて呼び出された可能性があるのではないか、と個人的に思っています。
その一番の理由は、5月1日の日記に待ち合わせが書かれていないからです。以前にも書いたように、被害者は日記の左の方にあらかじめその日の予定を書き込んでおいて、当日が終わってから本来の意味での日記を右の方から書いていたと私は考えています。つまり、予定を書き込む時点で待ち合わせの話があったのであれば日記に書かれているはずで、ある程度直前になって予定を伝えられたのではないかと思います。もちろん、当日(5月1日)あるいは前日(4月30日)の登下校の際に伝言されたということもありうるでしょうが、事件の2日前の4月29日に、同年代の高校生と同じバスで往復4時間も揺られていたというのはタイミングが良すぎるような気がします。
家族に見られることをおそれて待ち合わせを書かなかったという推理もできるかもしれません。しかし、被害者はMHくんに対する熱烈な恋心も日記に包み隠さずに書いていますので、待ち合わせだけ書かないということはないと思います。
交歓会に参加した埼玉県側の200人の生徒のうち、「メッセンジャー」役が務まる人物-被害者の中学時代の同級生で、犯人グループともつながりがある生徒-はいなかったのでしょうか。







