狭山事件: 「未解決事件捜査地図」
2011 年 12 月 11 日 日曜日現在書店で売られている「未解決事件捜査地図」というムック本で、狭山事件がとりあげられています。著者の朝倉秀雄氏は元国会議員秘書で、「15年にわたる調査活動」の間に「10回以上も事件現場の狭山に足を運び」、この記事をまとめたとのことです。
現在書店で売られている「未解決事件捜査地図」というムック本で、狭山事件がとりあげられています。著者の朝倉秀雄氏は元国会議員秘書で、「15年にわたる調査活動」の間に「10回以上も事件現場の狭山に足を運び」、この記事をまとめたとのことです。
前回、被害者の父親が就任していた「区長」というのは多分に公的な役職であったことを書きました。
その父親がおそらく関係していたであろう具体的な政治関係の話があります。本日の画像は「民有林開拓反対の請願書」です。
この請願書は、入間郡堀兼村長・諸口会三氏が会長となって設立された「埼玉県入間郡民有林開拓反対期成会」の名義で衆議院議長宛に提出されています。ちなみに、昭和22年(1947年)というと、ちょうど日本国憲法の発布に伴って帝国議会が国会に再編された年にあたり、国会への再編が5月3日、請願書提出は11月1日なので、請願書は日本国憲法下の国会で初めての衆議院議長となった松岡駒吉氏に提出されたことになります。
昭和22年当時、戦地からの引き揚げ者対策ならびに食糧増産対策として、堀兼地区の民有林を強制的に買い上げて開拓する計画がありました。上記の請願書はその計画に反対するために提出されたものです。諸口村長は後に埼玉県議会議員にも当選した地元の有力者であり、その子息も後に埼玉県議会議員を務めています。彼の旗振りの下、請願書には8,253名が署名したとされています。後に昭和29年に堀兼村も参加して合併・誕生した狭山市の発足直後の人口が31,030人であることを考慮すると、名前が挙げられている町村は狭山市の市域とは異なる(冒頭に上がっている柳瀬や大井はもっと東の方で、現在の所沢市やふじみ野市にあたります)ものの、当時の当該地域に住んでいた成人の大部分が署名に参加したものと考えられます。これだけの、いわば地元を挙げての反対がありながら、結局この計画は実行に移され、被害者宅からも遠くない堀兼村内のとある地域で50町歩(ほぼ50ha)が開拓されることになりました。請願書の提出先が衆議院議長であったことからも、場所まで含めて国政レベルの政治が動いての決定であることが伺えます。
この先は個人情報も絡むのでちょっと公開の場で具体的に書くことを憚られますが、他の資料から考えても被害者の父親はこの開拓反対運動に参加していたと思われます。そうなると、場所も近いことから、実際に入植した人たちとの間にトラブルもあったのではないかと思います(なお、この部分は私(本ブログ管理人)の憶測が入っていることをお断りしておきます)。
狭山事件が起こった直後、被差別部落への見込捜査が始まるまでの数日間、警察の捜査は地元関係・怨恨関係を中心に進められていたと言われています。その「地元・怨恨関係」とは、被害者の父が区長を務める地元の有力者であり、上記の開拓反対に関係していたことからのトラブルだったのではないかというのは一つの、かなり蓋然性が高い可能性だと私は考えています。
狭山事件の真犯人推理の中に「黒幕説」「怨恨説」というものがあります。「黒幕=被害者宅(父)と対立する勢力」が実行犯を使嗾して事件を起こしたという説です。従来、その「対立する勢力」とは誰なのか、どういう点で対立していたのかが不明なことが問題とされてきましたが、上記の開拓反対絡みと考えると、時期的にもかなり説得力があるのではないかと思います。
狭山事件関係の書物や議論の中で、「被害者の父親は上赤坂の区長を務める地元の実力者で…」という記述が時々出てきます。しかし、この「区長」がなんなのか、きちんと説明した文章を私は今まで見たことがありませんでした。
狭山市は東京23区内でもありませんし、政令指定都市でもありませんので、現在通常使うような、例えば「港北区長」「中央区長」などの「区長」とは意味合いが異なることは確かです。
先日、伊吹隼人さん(ならびにSさん)から『郷土誌ほりかね』という本の存在を教えていただきました。そこに区長についての話が出ていましたので、備忘録の意味も含めてまとめておきたいと思います。
いつもならここで郷土誌ほりかねのスキャン画像を置いておくところですが、古い郷土誌であまりにも個人情報てんこ盛りなので自粛させていただきます。あしからずご了承ください。
区長の起源は、明治5年に始まった戸長制度にあります。
戸長は、数カ村をまとめて区とし、その長として置かれました。なぜ区の長なのに戸長なのかは不明です(笑)。この戸長・副戸長には旧来の庄屋・名主を任命することが多く、徴税や義務教育、徴兵管理などの地方行政のかなりの部分に対して協力する存在でした。ちなみに、明治2年の記録では、上赤坂は前橋藩、中新田は川越藩、青柳は品川県となっているそうで、江戸~明治期の堀兼周辺の帰属はかなり複雑であったことが伺えます。
その後、戸長は選挙で選出されるようになったり、また官選に戻ったりと紆余曲折があったようですが、最終的に明治17年(1884年)に「戸長選任及び町村連合に対する太政官布達」(太政官達第四十一号)が出て、1) 300~500戸単位で「連合戸長」を任命すること、2) 戸長・連合戸長は(選挙の結果を参考にしつつ)官選とすることになりました。この時誕生した「連合戸長」は、付随して「戸長役場」が設置されるなど、「村」と同様の地方行政を担う存在であったようです。
明治22年(1889年)には町村制が施行されて堀兼村が誕生しました。その際に、従来の「戸長」が「区長」に改称され、村条例で区長の仕事を定めたとされています。しかし、その肝心の村条例が残っていないそうで、それ以上の詳細はわかりません。この区長も官選で、資産などの条件がついており、「世襲的のように長い間区長は動かなかった」とのことです。
その後、戦時中の隣保班(隣組)の制度や、戦後の公民館制度などとも微妙に絡み合いながら、結局のところ「区長」という名称で、少なくとも狭山市内においては半ば公的な存在として認知されていたようです。昭和45年(1970年)に改定された「狭山市区長会連合会規約」の第一条にも「本会は狭山市区長会連合会(以下連合会)と称し、事務所を市役所総務課内に置く」と規定されていて、区長会連合会の事務局を狭山市役所自身が務めるほど、公的に認められた存在であったことがわかります。ただ、いつから公選ではなく選挙で決まるようになったのかは不明です。
上述の「規約」の第四条には、連合会の事業として下記の4項目が掲げられています。
要するに、市に対する政策陳情、逆に市から下りてくる諸施策への協力等(例えば回覧板を通じて、等)が区長の仕事ということになるでしょう。
この先は私(本ブログ管理人)の想像が入ります。農地関連や市関連施設の誘致なども、市としてはまず区長(連合会)に諮問して、それから業務を進めるという形だったのではないでしょうか。従って、例えば市街化区域の指定などの具体的な線引きには、それなりの影響力を持っていたものと私は考えます。
長々と書きましたが、被害者の父親が就任していた「区長」とは下記のような存在だったと私は考えます。
このことが、「狭山事件の推理」にどう影響を及ぼすかを次回以降書きたいと思います。
(6月11日追記)本件現地調査は中止になりました。大変恐縮ですが、事情ご賢察の上ご了承ください。
伊吹隼人さんより、狭山事件現地調査のお誘いです。以下、ご本人からの連絡をそのまま記載いたします。私(本ブログ管理人)も参加させていただきたいと考えています。
■「狭山事件」現地調査会開催のお知らせ
平成23年6月12日(日)
集合場所:西武新宿線狭山市駅改札口(解説員が「調査会」の封筒を持って立っています)
集合時間:12時50分 出発時間:13時
歩行距離:約3km 所要時間:約3時間
最少催行人員:3名(先着15名まで) 参加費:100円(資料代)
雨天の場合(午後雨天の予報含む):中止
※終了後には駅前飲食店にて「意見交換会」を行います(希望者のみ)。
コース:狭山市駅~被害者通学路~旧入間川駅跡~荷小屋跡~西武通運跡~死体第一発見者宅~入間川分校跡~狭山郵便局跡~小沢毛糸店跡~東中学校跡~第一ガード~第二ガード~X字路~荒神様~OG新居跡~Wさん宅~殺害現場跡(確定判決による)~芋穴跡~死体発見現場~荒縄盗難地点~スコップ発見現場~IT宅跡、石川さん宅跡付近(※事務所には立ち寄りません)~白山神社~狭山市駅
参加ご希望の方は、お1人様1回、コメント欄にお名前(HNで結構です)および「参加希望」とだけお書きください(配布資料準備のため)。
本名・連絡先等のご通知は一切不要です。政治・思想的な背景は皆無の調査会なのでどうぞお気軽にご参加ください。主として「純粋に、狭山事件の内容・真相のみを知りたい」という方々のご参加をお待ち致しております。
管理人注1: コメントで参加表明をするのに気が引けるという方は、メールでblog@flowmanagement.jp(間の@を半角に変換してください)宛にご連絡ください。こちらも捨てアドで結構です。
管理人注2: 当日の天候が微妙な場合にはこちらのブログ上でも開催/中止のご連絡をさせていただきますので、ご確認ください
今回も以前訪問した際の写真のお蔵だしです。
都井睦雄は、当初は加茂の万袋医師や只友医師の診察を受けていましたが、津山の中島医師の診察も受けていました(診断は肺尖(カタル))。そのことは睦雄の親類(おばやんの甥)である寺井元一の証言にも出てきます。当時、肺病の人は診断や治療に納得がいかず医師を転々とする人が多かったとのことで、睦雄もそのご多分に漏れなかったようです。
中島琢之氏は津山出身で東京帝大医科大学を卒業し、請われて郷里に戻っていったん病院を開設したものの、最新の医学から取り残されるのをおそれて再び東京へ出たい意向を洩らしていました。すると、友人でもあった地元の銀行家が中心となって、この建物(中島病院旧本館)とレントゲン装置などを含む当時最新の医療機器を揃えて引き留めたため、引き続きこの地で診療を続けることになったとのことです。
そのような経緯から設備・医師とも当時のこの地方では最高峰の評判が高かったようで、睦雄がセカンドオピニオンを求めにわざわざここまで来たのもそれが理由でしょう。
中島病院は現在も津山市内にあり、構内に旧本館がそのまま保存されていて「城西浪漫館」として公開されています。上記は先日立ち寄った時の写真です。どこが診察室だったかわかりませんが、こんなところまで睦雄が来ていたかと思うと感慨深いものがあります。
昨日実施された、「狭山事件を推理する」管理人氏主催の現地見分に参加してきました。案内役に伊吹隼人氏を迎え、初参加の方も多くかなりの盛況(ダジャレではない)でした。
石川一雄さんもお元気そうでした。しかし、「10歳も年下の○○ももう死んでしまったし、今は元気だけどいつどうなるかわからん」とおっしゃっていたのが印象的でした。
石川さんのお話で一つ新発見だったのは、I養豚場の兄弟が男兄弟だけで4人いて、姉妹まで入れると10人きょうだいだったというお話です。狭山事件関係本やマスコミでは「養豚場」と言えば「三兄弟」の枕詞として使われているのに、実際には4人いたというあたり、やはり従来の狭山事件関係本の取材不足を感じさせます。石川さんによると、三男は養豚場経営に参加していなかったのであまり表に出てきていないのではないか、とのこと。
席上、2010年5月13日に開示された証拠の一覧表をいただいてきました。新聞報道等では断片的なので、一応一覧表として掲載しておきます。
弁護団が2008年5月23日付け、2009年8月17日付けの証拠開示勧告申立書で開示を求めた証拠のうち8項目の証拠が2009年12月16日に(引用注、裁判所から)開示勧告された。そのうち、5項目について36点の証拠が2010年5月13日開示された。
| 番号 | 開示勧告が出された証拠 (2009年12月16日) |
検察官の回答・開示された証拠 (2010年5月13日) |
備考 |
|---|---|---|---|
| 1 | 殺害現場とされる雑木林内における血痕検査の実施およびその結果に関する捜査報告書一切(検察官は殺害現場のルミノール反応検査報告書について存在しないと言っているが、存在しないならその理由の説明を求める) | 不見当 | 「殺害現場」の血痕検査については検査を行ったという埼玉県警係員の証言があり、見当たらないならその理由(廃棄したならいつ誰がどのような理由で廃棄したのか)を明らかにするべきでしょう。また、当初検察の回答が「存在しない」だったにもかかわらず「不見当」に変わっているということは、後で見つかったときに「その時には見つかりませんでしたが、あったんですね~」と言い訳できるようにするためとも考えられます。 |
| 2 | 捜査官が、殺害現場に隣接する畑で農作業をしていたOさんから3回目に事情聴取した際の捜査報告書ならびに供述調書 | Oさん関係の捜査報告書1通を開示 | そもそもこれまで非開示だったことがおかしな話ですが、今回開示されたことは一定の評価がされるべきでしょう。 |
| 3 | 殺害現場とされる雑木林の隣で事件当日、農作業をおこなっていたOさんを取り調べた捜査官の供述調書案、取り調べメモ(手控え)、調書案、備忘録等 | Oさん関係の捜査報告書2通開示(ただし1通は上記と重複) | |
| 4 | 1963年7月4日付けの実況見分調書に記載されている現場(雑木林)を撮影した8ミリフィルム | 不見当 | これらの公式の文書にその存在が記載された証拠が見当たらないなら、その理由(廃棄したならいつ誰がどのような理由で廃棄したのか)を明らかにするべき。 |
| 5 | 死体鑑定書や1963年5月4日付けの(死体発見時の)実況見分調書に添付された写真以外の被害者の死体に関する写真 | 不見当 | |
| 6 | 石川一雄さんが○○製菓の工場に勤務していた当時の借用書など筆跡鑑定等のために収集した石川さんの筆跡が存在する書類 | 6点の筆跡関係資料を開示 | 真犯人推理の観点からすると、石川さんの筆跡関係資料だけでなく警察が集めたすべての筆跡関係資料を開示してほしいものですが… |
| 7 | 石川さんが逮捕・勾留中に書いた本件脅迫状と同内容の文書など、石川さんの筆跡が存在する文書 | ||
| 8 | 石川さんの取り調べにかかる捜査官の取り調べメモ(手控え)、取り調べ小票、調書案、備忘録等 | 捜査報告書等19通を開示 取り調べ録音テープ9本を開示 |
今回公開されたテープは自白時のテープです。石川さんも述べているように、その前、1ヶ月にわたって否認をしていた間のテープも公開されるべきと思います。 |
なお、本日、このエントリの前に業務連絡としてもう一つエントリを書きました。昨日の参加者の方々はそちらもご参照ください。
津山事件: 中村一夫『自殺―精神病理学的考察』のエントリに、中村一夫氏の「中村病院」は既に潰れており、現在も埼玉県内にある精神科の中村病院とは別物であるというコメントをいただきました。ありがとうございます。
なお、上記エントリにも書いたように、中村一夫氏の『自殺』は私が今までに読んだ津山事件本の中では最も正確性が高く、津山事件に対する愛があふれまくっていてマニアの方には是非一度読んでいただきたい本です。ただし、全部で200ページの本の中で津山事件関係の記事は40ページほどですので、その点はあらかじめご了承ください。
全研究下山事件サイトにて、「五反野轢断現場周辺の目撃者証言」という記事が上がっています。
特に、各目撃者の位置と目撃時間をまとめた地図に関して、私自身もいつかはこれをやりたいとは思っていたのですが、先にしかも私が考えていたのよりも精緻な形でまとめられています。その努力に敬意を表すとともに、下山事件に興味がある方は是非とも一度ご参照ください、とおすすめしておきます。私が知る限り、ここまですべての証言を地図上にまとめたものは今までなかったのではないかと思います(もしどこかにあればご教示ください)。
この地図、特に(2)の方を見ると、「下山総裁は短い時間の間にあちこちで目撃され過ぎではないか」という疑問が出るかもしれません。しかし、(2)の地図下にある縮尺を見ていただくとわかるように、この地図の端から端までで300m程度です。悩みながらゆっくり歩いたとしても成人男性の足では5分もかからないでしょう。一般的に不動産の「徒歩○○分」は徒歩1分=80mですので、300mなら徒歩4分たらずということになります。
ちなみに、常磐線、東武線と小川が作る三角形の地帯は現在公園になっていて、当時の面影はありませんが実際に線路際を歩いてみることが可能です。ただし、線路は現在かなり厳重に囲われてしまっていて、土手に登ることはできなくなっています。本日の写真は、子供を遊ばせているお母さんたちに不審そうな目を向けられながら公園の中の遊具に上って轢断現場方面を撮影した写真です。
以前ちらっと書いた週刊朝日2008年5月23日号の「実録 津山30人殺し 『八つ墓村』事件70年目の新証言」についてのことだと思いますが、コメントでご質問をいただいたので検証してみます。
質問なのですが「津山事件報告書」には、犯行当日の夜に貝尾部落のお堂で
睦男と村人たちが宴会をした模様は書かれていますでしょうか
こんどお暇の時にでもご回答をお願いいたします。
結論から言うと、『津山事件報告書』には当日の夜睦雄と村人が宴会をしたという記述はありません。記事を書いた小宮山明希記者の勘違いか捏造かのいずれかであろうと思います。
まず、週刊朝日の当該の記述を確認しましょう。
週刊朝日2008年5月23日号より
これを見てわかるように、
その後、都井は自宅の裏手のお堂で、村の若者ら6、7人とともに宴会に参加していたという。宴会が終了したのは深夜0時頃。惨劇はその約1時間後に起きた-。
この記述はおじいさんの発言ではなく地の文として書かれています。「宴会に参加していたという」のソースは示されていません。
他方で、上述の通り『津山事件報告書』にはそのような宴会があったという話も、睦雄が参加していたという話も書かれていません。さらに、これまで70年間、筑波本や清張本をはじめ、誰一人としてそのような宴会があったという話をしていないことから考えても、宴会の存在はほぼ「ありえない」と否定してよいと思います。
もう一つ、宴会がなかったであろう証拠を。
事件の年の8月に近くの寺(真福寺)で合同慰霊会が開催され、その際に津山警察署長や西加茂村長、さらに村人たちが参加して「座談会」が開かれました。一部は筑波本(『津山三十人殺し』)にも引用されていますが、筑波本で省略されている発言に以下の内容があります。
『津山事件報告書』より
署長 当地には結核患者を故らに嫌う風習がありますか
寺井勝 左様なことはありません
署長 犯人の遺書には部落の人が結核に対する理解がない様に書かれて居りましたね
寺井勲 近所の者は皆結核と思うて居なかったのに都井は自分から結核であると言うて居ったのです
寺井勝 私は本人に対し君は勉強が過ぎて神経衰弱になって居るので結核ではないと云うてやって居りました、年末の夜警や青年の集会等には何時も都井君行こうではないかと誘うてやって居りましたが本人は何時も行けたら行くからと云うて丁寧な返事をして居りました。しかし大勢寄り合う場所は都井自身が避けて居りました、従て消防の年末夜警にも都井を組み合わせに入れませんでした、兎に角我々は本人に対し非常に同情して居ったので新聞紙に報道されて居た様に部落の者が嫌うた事はありません
もし当日に宴会があり、睦雄がそこに参加していたのであれば、この時に「当日も青年の集会があり、都井も珍しく参加しておりました」などと村人たちが睦雄を受け入れていた例として話に出すはずです。「実はその宴会はいわゆるヤリコンで、だから村人たちはその存在を隠しているのだ」という反論もあるかもしれませんが、それならそういう宴会だったことを伏せて話をすれば済むことであり、警察署長に村の親和性をアピールする格好の材料になったことでしょう。
また、貝尾には西加茂村役場書記の西川昇が住んでいたことも見逃せません。彼は職業柄警察の聴取に対して極力情報を提供しており、そのような宴会があれば彼を通じて警察に情報が提供されることは間違いないと思います。
そもそも、5月下旬は蚕の世話で忙しい時期であり、村人の一人(寺井元一)は
事件のあった夜、私は蚕の方が忙しくて、夜の一時半頃寝ました。
と証言しています(寝てすぐ事件で騒ぎになって起こされたとのこと)。この証言と、養蚕室で仮眠をしている時に襲われた被害者が多かったことから考えても、0時前に働き盛りの青年が集まってのんびり宴会をするような季節ではなかったと思われます。これも宴会がなかったであろう傍証です。
この点以外でも、今になってこの週刊朝日の記事を読み返すといろいろとツッコミどころが多いですね。当時私が書いたエントリでは薦めてますが、正直あまりオススメできる内容ではないことに改めて気付きました。
しばらく更新できそうにないと書いた舌の根も乾かないうちの新エントリですいません。
「アルネ津山問題」というのが存在することを先日初めて知りました。
津山市の中心部に存在している総合商業・文化施設「アルネ津山」について、税金の無駄遣いだからヤメろという話があり、2005~2006年の市長リコールと出直し選挙はそのあたりが争点だったようです。
そのへんの政治的なお話しは、地元住人ではない私(本ブログ管理人)にはよくわかりません。しかし、個人的に2005年くらいから津山事件の調査を本格的に始めたこともあって、アルネ津山問題には共感できる部分もあります。アルネ津山は津山市の中心にある商店街のアーケードと続いています。商店街の駐車場にレンタカーを駐めてアルネ津山にある図書館へ歩いていく最中に、地方都市によくあるシャッター商店街を実感しました。インター近くにあるジャスコや、さらに郊外のホームセンター・スーパーの盛況も見ていますので、市の中心部に税金を投入してデパートを誘致するというやり方の有効性にはかなり疑問を感じたことも確かです。アルネ津山は隣接して音楽文化ホールも抱えており、私が訪問したときも地元の高校の音楽部による発表会が組まれていました。単純に商業的・経済的な問題だけを語るのは間違いかもしれません。しかし、結局のところ、よく言われる「ハコモノ」だけ作って中身のソフトをないがしろにしたツケが、ここでも「アルネ津山問題」として噴出しているのではないかと感じました。
ここで一つ提言です。現時点で、津山市近辺に津山事件に関する常設展示は存在していません。「八つ墓村」という大ヒット映画の題材にもなったこの事件を観光資源として活用しないのは、あまりにも「もったいない」と考えます。例えば、アルネ津山の中にある津山市立図書館にコーナーを設けるとか、加茂町歴史民俗資料館に常設展示を作るとか、その程度でもある程度の誘客効果はあるでしょう。常設までいかなくても、大手旅行代理店とタイアップして「津山事件ツアー」を組めば、それなりの誘客効果はあると思います。洋学博物館やその他の津山市として売り込みたいものと組み合わせて、例えば「津山ホルモンうどんと津山事件を訪問する2日間」でもいいと思います。
「このような凄惨な事件を見せ物にするのか」という遺族感情から来る反対意見はあるでしょう。しかし、このような凄惨な事件(私が知る限り、世界でもトップ5に入る大量殺人事件です)だからこそ、現代にも通じる教訓や、現代人にも共感できる部分があると思います。
「負の世界遺産」というものがあります。広島の原爆ドームや、アウシュビッツの収容所など、人類がこの世に引き起こした悲惨さを後世に伝えるために「世界遺産」に指定されたものです。津山事件に関しても、内容に充分配慮する必要はありますが、地元に相応の利益を配分しつつ観光資源化する方法はあるのではないかと考えます。関係各位のご検討をいただけると幸いです。