狭山事件: 「となりのトトロ」と狭山事件 その2
2010 年 8 月 24 日 火曜日
狭山茶の茶箱
(「ドラプラ」サイトより引用。元のサイトでは記事がなくなっているようなので、こちらで改めて写真をアップさせていただいています)
以前、「となりのトトロ」と狭山事件を関連づける都市伝説を否定するエントリを書きました。
狭山茶の茶箱
(「ドラプラ」サイトより引用。元のサイトでは記事がなくなっているようなので、こちらで改めて写真をアップさせていただいています)
以前、「となりのトトロ」と狭山事件を関連づける都市伝説を否定するエントリを書きました。
「女性自身」に掲載された被害者の日記シリーズ、最後のページです。
本日の引用部分で真っ先に目に付くのは、4月26日の部分です。
4月26日(金)晴
(前略)これからのバカンスのことを考える。
今晩も涙を流し、眠りに入った。
つらい。苦しい。それもみんなおこづかいのことだ。涙が枕元を流れた……
(原注)(ゴールデンウイークのこづかいが少ないことで(被害者)さんはなやんでいた。姉の(次姉)さんは、あとでこの日記を見て、「生きているうちに、もっと好きなことをさせてあげたかった」と泣いていた)
これはどういう意味なのでしょうか。
(続きを読む…)
被害者の日記の続きです。
まず気がつくのは、被害者のマジメさが現れている部分です。
中学生が立ち食いしているのは、みっともない。そのみっともないことを、自分はどうしてするのだろう。今度こそ、かならずやめよう。
また、被害者の男子に対する態度も、ういういしい、中学生らしいものだと思います(本日掲載したのは1月から3月の部分なので、被害者はまだ中学3年生でした)。
昼休みのときだった。国語の答案を見に行こうとしたら男子数人が答案を見ていた。そこにMさんもいた。だから私はひき返した。わりこんで行くのが恥ずかしかったからだ。少したって、男子がひきあげたと思って行ってみるとMさんだけ残って、答案合わせをしていた。私はその後ろへ行って答案をそっと見ていた。しばらくすると、Mさんは一人になったのに気がついて、後ろを振り向くと、「チェッ」といって、恥ずかしそうに私と視線を合わせ、去っていった…。
Mさんが道でローラースケートを楽しんでいた。行きも帰りも会い、少し恥ずかしかった。早く私もうまくすべりたい。早く早く。
Mさん、さようなら。胸がいっぱいだった。
この「Mさん」に関する被害者の恋心は、伊吹本(『狭山事件 -46年目の現場と証言』)にも掲載されている日記の他の部分にも現れています。読んでいると思わず萌えてしまうような記述が満載です。
被害者の日記の話の続きです。
日記は事件の年の1月1日から書き始めたとのことで、それ以前のものは存在していないようです。この点について、上の記事中の写真で次姉が胸に抱いている日記帳に「記念」という文字が見えますので、何かの記念(中学の卒業記念等)で日記帳をもらったことをきっかけに書き始めたのではないかという推測も可能です。ただし、この写真で見えている日記の表紙は、別のところで日記の表紙として公開されているものと明らかに異なりますので、単純に写真撮影の時に適当な本を次姉に持ってもらって撮影したということも考えられます。
日記の内容としては、まず、中三~高一としては文章がしっかりしているという印象を受けます。「今日は○○のスィーッを食べに行ったょ。チョ→ぉぃしかった♥」みたいな文章はさすがに時代的にも書かないでしょうが、それにしても背伸びした中にもういういしさの残る、好感が持てる文章です。
「姉さんが、アルバムからはがしてくれた」という被害者の写真が右上にあります。これは学生証の写真と同じものだと思います。この時期(5月20日号=5月13日頃発行なので、取材時はおそらく5月10日前後)にはまだ学生証は刑札の管理下にあった可能性が高いので、学生証の写真そのものではなく、学生証の写真を撮りに行ったときに焼き増ししたものを、次姉がアルバムからはがして記者に提供したのではないかと思います。ただし、事件翌日には被害者の自転車が被害者宅に戻っていたことも明らかなので、確定ではありません。
また、これももうちょっと調べないと確定的には言えませんが、この写真はこの記事が初出かもしれません。事件直後に出回っていたのはもう少し幼い感じの写真(こちらの記事の上2つ)でした。
(2009年3月30日追記): この日記が掲載されていた「女性自身」を、当初「昭和38年6月10日号」と記載していましたが、「昭和38年5月20日号」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。また、それに伴っていくつか本エントリの内容を書き直しました。
狭山事件の真犯人を推理する上で、最低限説明しなくてはならない4つのポイントがあります。
その他にも、殺害方法など一般的に殺人事件において問題とされる様々な問題についても説明する必要はあります。しかし、上記の4点が「狭山事件の真犯人」の推理で最も重要なポイントであることは議論の余地がないでしょう。
これらの中で最も重要なポイントは何かというと、実は三番目の「さのヤに来たのは誰か」という点に集約されると思います。この時点で真犯人(複数犯であれば一味のうちの誰か(複数の可能性もあり))が刑札の包囲の真ん中に姿を現し、悠々と逃げおおせたのは確実な事実と思われ、それをどう解釈するかで、狭山事件に関する全体の推理もほぼ決まってきます。逆に言えば、さのヤの件から想定される犯人像とつじつまを合わせるために他の3点を何とか説明するというのがこれまでの狭山事件推理の主流的な手法で、でもすべては説明できずに謎が残るという結果になっていると思います。
(注記)こう書くと「従来の手法を否定している」と取られるかも知れませんが、私(管理人)もそれがまっとうな推理の手順だと思いますし、限定された情報の中で謎が残るのもやむを得ないと考えています。
伊吹本で新たに判明した事実に基づいて、本ブログの記事もかなり大幅な書き換えが必要になっています。重要なところから順次対応していきますが、取り急ぎ重要度と要変更点の多さから「被害者の家族」の項目に手を入れました。
本日の画像は、上記「被害者の家族」に関連して、裁判の中で被害者と次姉が「腹違い」ではなかったかという話が弁護士から出たところです。ご覧いただける通り、この話はかなり唐突に持ち出されてきていて、なおかつ根拠が示されていません。なぜ石川さんの弁護団がこの話を法廷で持ち出してきたのか、今となっては判然としません。
本日の画像の中のやりとりではもう一つ、昭和39年の初夏、次姉が自殺する前には長兄が秋に結婚することが決まっていたという話が出ています。私がこの辺で持ち出した、「被害者宅の女手がないことが次姉の自殺理由の一つではないか」という話はこの内容からも否定されると思います。
狭山事件を推理するサイトの方に、『46年目の現場と証言』著者の方からの私が書いた内容に対するコメントが掲載されています。
今回は、予定を変更して次姉の「夫」に関する情報をまとめてみます。以下、「夫」本人の石川さんの裁判における証言からの抜粋です。
コメントで、被害者の家族がみなポエムのような文章を残しているというご指摘をいただきました。確かにそういう感じなので、既に「狭山事件関連資料」サイトの方に掲載した資料ばかりで恐縮ですが一応ここにまとめておきます。
毎日新聞昭和38年6月23日付より 被害者の長兄と次姉とぬこ
以下、被害者家族の情報です。生年で(?)がついているのは没年齢や事件当時の年齢などから推定したもので、1年くらいのズレがある可能性がありますがご容赦ください。