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津山事件: 『雄図海王丸』と『浮城物語』 その1

fujoumonogatari2岩波文庫版『浮城物語』奥付

こちらのコメントで書いた内容の続きです。

私は、筑波本に都井睦雄の作品として紹介されている『雄図海王丸』も、筑波昭氏による創作である可能性が高いと考えています。いくつか理由はあります。

  1. 『雄図海王丸』のプロットは矢野龍渓の『浮城物語』とまったく同一であり、文体を「子供向けに」書き直した程度である
  2. 『浮城物語』は矢野龍渓の代表作の一つであり、矢野龍渓の名前は『雄図海王丸』の冒頭にも出ているので、ちょっと調べればわかるはずなのに、筑波氏がぼかした書き方をしている
  3. 睦雄が生きていた昭和10年代前半における本作品の入手可能性に疑義がある
  4. 「津山事件報告書」に『雄図海王丸』が全く出てこない
  5. 『雄図海王丸』の原稿の写真も「津山事件報告書」にない

『浮城物語』はこちらで全文読むことができます。
国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」内『浮城物語』

関係する時系列をまとめると下記の通りです。

  • 1851年(嘉永3年):矢野龍渓生誕(豊後(現在の大分県))
  • 1890年(明治23年):郵便報知新聞に『報知異聞』(『浮城物語』の原題)を連載
  • 同年:『浮城物語』単行本発行
  • 1931年(昭和6年):矢野龍渓逝去
  • 1938年(昭和13年):津山事件発生・都井睦雄自殺
  • 1940年(昭和15年):『浮城物語』岩波文庫版発行
  • 1943年(昭和18年):『浮城物語』現代語版発行

単行本には徳富蘇峰や中江兆民、森鴎外といった錚々たる面々が跋文を寄せており、それだけでも当時におけるこの作品の影響の大きさがわかります。

『雄図海王丸』のプロットは『浮城物語』のほぼ丸写しで、主要な登場人物の名前(「作良義文」「立花勝武」など)も共通していますので、パクりとはいわないまでも少なくとも参考にしていることは間違いありません。岩波文庫版が出たのが昭和15年であったことを考慮すると、睦雄が本当に『雄図海王丸』を書いたのであれば、いつどのようにして『浮城物語』を読んだのか、という疑問が残ります。ご存じの通り睦雄は昭和13年(1938年)の津山事件当日に自殺しており、その時点では『浮城物語』は50年近く前の、文庫にも未収録の作品ということになるからです。

国会図書館で検索した限りでは『浮城物語』は明治39年や大正5年にも改訂版が発行されていますし、昭和に入ってからも改訂版は出版されていたと思われます。それを睦雄が何らかの形で入手したり、あるいは学校の図書室にその本があって、それを元に子供向けに『雄図海王丸』を書いた可能性はゼロではないと思います。しかし、『雄図海王丸』は、例えば「班超伝」の引用などかなり詳細な部分まで『浮城物語』と一致しており、図書室で読んだ本のうろ覚えのあらすじを元に書いた、というレベルではありません。手元に『浮城物語』があって、それを元に言葉遣いを改変して書いたとしか考えられない内容です。

「津山事件報告書」にも『雄図海王丸』や『浮城物語』に関する言及が全くないことからも、青年時代に『浮城物語』の岩波文庫版あるいは現代語版を読んだ筑波氏(昭和3年生まれ)が、それを改変して創作に利用した可能性の方が高いのではないかと思います。

 

津山事件: 都井睦雄が自殺した場所 その2

前回エントリで書いた場所が睦雄が自殺した場所ということでほぼ確定だと思うのですが、一つだけ気になることがあります。コメントの方に書かせていただいた、事件の翌年の5月に岡山地検の中垣検事が現地を訪問したレポートには、実は続きがあります。

麓で教わった場所も来てみると頗る漠然としていた。数尺、積み重なった杉の病葉を踏みしめ、灌木の繁みを分けて、それらしき処へ出て見た。そこからは貝尾の部落は一望の下にあった。遥かに西加茂小学校も俯瞰し得る。犯人の生地加茂町倉見も見えるとのことだが、わたしたちにはよくわからなかった。

IMG_1979-1仙ノ城山頂からの眺め(拡大)

ところが、上の写真で「山頂」から見える2つの学校は加茂小学校と加茂中学校で、旧加茂西小学校(現在のウッディハウス加茂の場所)は山の向こう側になって見えません。

なお、1975年(昭和50年)に加茂小学校と統合された加茂西小学校が現在のウッディハウス加茂の位置にあったことまでは、加茂小学校に直接問い合わせて確認しましたので確実です。昭和13年の西加茂尋常高等小学校が統合直前の加茂西小学校と同じ位置だったかどうかについては現在のところ確認する方法がなく未確定ですが、常識的に考えるとおそらくは同じ位置であろうと思います。

kamochuushinbumap国土地理院2万5千分の1地図: 昭和51年発行

上の地図は、発行は昭和51年ですが現地調査は昭和48年とのことで、昭和50年に統合・廃校になった小学校が地図上に残っています。「山頂」からの写真と見比べてみていただけるとわかるように、加茂西小学校は手前の山のちょうど向こう側になって「山頂」からは見えないことになります。

上の地図でわかるように、昭和40年代まで加茂の中心部にはやたらとたくさん学校がありました。そのあたりの経緯はこちらのページに詳しく説明されています。ただし、その記述によると戦前の加茂小学校はいったん廃校になって中学校になったようなのですが、現在の加茂中学校は旧東加茂村地域にあり、どうもその辺がよくわかりません。ちなみに、現在の福祉センターや郷土歴史資料館があるあたりには(新制)高校もありました。おそらく昭和29年に加茂高校として設立され、津山東高校加茂分校に再編後昭和60年に廃止(津山東高校へ統合)されています。

話を元に戻すと、一番ありそうなのは加茂小学校を西加茂小学校と見間違えたということです。中垣検事が加茂を訪れたのはこのときが初めてのようですので、この山間の町にこんなにたくさん学校があるとは思わなかったのでしょう。

津山事件に関する本はこちら

 

津山事件: 玩具用ピストル

pistol『津山事件報告書』より

今回の画像もおそらく本邦初公開だと思います。キャプションの「玩具用」は「玩具様」の誤植かもしれません。とりあえず「玩具用」でも意味は通るのでそのままタイトルにしました。

スキャンした写真だと細かい部分がちょっと潰れてしまっていますが、見たところこれは手作りのようです。おもちゃとして遊ぶ程度の弾丸(例えば輪ゴムとか小石程度の)も撃てなさそうな構造なので、殺傷あるいは射撃練習が目的ではなく、おそらくは関係を迫る相手の女性を脅す目的で作成したものではないかと思います。暗がりでこれを突きつければ本物かどうかわからないだろう、ということでしょうか。

事件後に自宅から発見されたとのことで、いつごろ製作したものかわかりません。睦雄が本物の猟銃を手に入れたのは昭和12年7月頃であり、それ以前であることは確実ではないかと思います。睦雄が村の女たちに性的なちょっかいを出し始めるのが昭和10年~11年初頭、万袋医師に肋膜の診断を受けるのが昭和10年12月31日、寺井マツ子の供述にある

睦雄方に部落の電燈代の集金に行つたとき其の祖母が不在であった折同人から関係をしてくれと何度も言われたが夫ある身で左様なことは出来ぬと拒絶したところ、関係してくれなければ殺すといって脅かされた。

というのが昭和11年春頃とのことなので、おそらくは昭和11年~12年初頭頃に製作したものではないかと推測します。

いずれにしても、以前からこのようなものを自分で作っていたことから考えると、筑波本にある

この段階で銃を購入した真の理由は、第一に銃を所持することによって、西川とめたちに無言の圧力をかけて、彼女たちの悪宣伝の口を封じること、第二に金品でもなびかぬ若い娘たちを、銃で脅して自由にすることの二点ではないかと考えるのが、自然のように思える。

という推測は、ある程度当たっている気もします。ただし、その後の行動を見ると、かなり早い時期に具体的な殺意が固まっていたようにも思います。このあたりは、また改めて論じさせて頂きたいと思います。

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津山事件: 珍案歩哨

shounenkurabu少年倶楽部 昭和12年12月号 『津山事件報告書』より

本日の画像も相変わらず『津山事件報告書』からの引用です。少年倶楽部昭和12年12月号に掲載された漫画の切り抜きとのことで、鹽田(塩田)末平検事は

犯人は少年倶楽部を愛読し居りその犯行当時の服装も左の切抜漫画からヒントを得たるに非ざるかと思われる。

と書いています。
今だったらマスコミが大喜びで「マンガ脳が生んだ悲劇」「検事も認めたマンガの危険性」などと書き立てることでしょう。

松本清張氏は犯行当日の都井睦雄の格好について

この地方では、夜間川漁をするとき懐中電燈一個を手拭などで頭上に結びつける風習がある。睦雄はこれにヒントを得たものと思える。が、また一方では、彼が愛読していた雑誌「少年倶楽部」昭和十二年十二月号第十頁に剣付銃を構えた日本兵が中国人を誰何している画が載っているので、これに着想を得たようにもとれる。

と書いています。この描写を読んだだけではなんのことやらわかりませんが、本日の画像を見て頂くと意味がわかるのではないかと思います。

個人的に、松本清張氏は「闇に駆ける猟銃」を書くにあたって現地取材はしていないのではないかと思うので、上記の「この地方では…」以下の部分の信憑性には多少の疑問を持っています。しかし、本日ご紹介した画像をもって「睦雄はこの絵を参考に鉢巻きに懐中電燈を結びつける装束を考えた」と言い切るのもどうか、この辺、何かまだ明らかになっていない「元ネタ」があるのではないかという気もします。あくまで単なる個人的意見ですし、推測ばかりで申し訳ないですが、現時点ではそう考えています。

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津山事件: 筑波昭氏とのコンタクトに失敗

『津山事件報告書』を入手して以来、『津山三十人殺し』との差が気になってしょうがないため、筑波昭氏に連絡をとってみました。

周知の事実とは思いますが、筑波昭さんは黒木曜之助という別名義をお持ちで、ノンフィクションは筑波昭、推理小説は黒木曜之助とペンネームを使い分けていらっしゃいます。黒木曜之助名義の連絡先が公開されているので、そちらの方に手紙と電話で連絡をとってみました。

お伺いしたのは、

『津山三十人殺し』には、『津山事件報告書』には記載されていない内容がかなり描写されており、おそらくそれは筑波さんご自身の独自取材に基づくものと思う。その独自取材の概要について、お話しだけでも聞かせて頂けないか。

という内容です。

しかし、手紙のご回答はいただけず、お電話したところ「ちょっと仕事で忙しいので、ご返事できません」とのことでした。

一応、事実のみこの場を借りてご報告させていただきます。

筑波昭さんは昭和3年生まれとのことですので、今年で82歳でいらっしゃると思います。是非とも、後世のためにも「事実」がどうなのか証言して頂けないかと思うのですが、なかなか難しそうです。

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津山事件: 中村一夫『自殺―精神病理学的考察』

掲題の本を読みました。

感想。

「参りました」

津山事件に対する「愛」では人後に落ちるものではないと自負していましたが、この本の著者には負けました。それほど凄い本です。津山事件について書かれているのは本の中の1つの章で、全体で200ページ弱のこの本の中で40ページ程度だけですが、そこに著者の津山事件と都井睦雄に対する想いがぎっしり詰め込まれています。この本のオリジナルは1963年に出版されたものとのことですので、筑波本よりも20年近く前ということになります。

例えば、津山事件と都井睦雄について採り上げた章の冒頭には年表が出ています。
この年表は『津山事件報告書』にも出ていないもので、著者が独自に編集したものと思われます。その内容も「事実」だけを過不足なく採り上げており、ある意味で今後の津山事件研究のリファレンスは筑波本よりもこの本にするべきでないか、という気にすらさせられます。

著者はかなりの現地取材もしています。1960年代前半であり、睦雄を診察したことのある只友医院の院長も当時まだご存命で、直接話をして医師同士として意見交換しています。さらに、祖父が亡くなったのが大正7年7月であることにも言及しており、これも報告書には出ていない、現地へ墓を見に行かないと得られない情報です。そういう、さらっと書いてあることがいちいち深い本です。

新幹線もない、東名高速道路も中国縦貫道もない、東京から現地に行くだけでまる1日、下手をすると片道だけで2日かかるような時代に、専門外のことでこれだけの調査をする。そこに著者の津山事件に対する「愛」が感じられます。

もちろん、本題である睦雄の精神分析も頷かされるものがあります。

このような本があったことを知らずにいた自分の不明を恥じます。著者の中村一夫氏の名前が一般的すぎて、どういう経歴の方かネット検索だけだとよくわからないのですが、もしご存命であれば是非一度お会いしてみたい方です。

(2010年1月26日追記)
中村一夫氏について、この本の奥付には著者紹介が何も書かれていませんが、オリジナルである紀伊国屋新書版(1963年9月30日初版)の奥付によると下記の通りです。

1916年埼玉県生まれ。東北大学医学部卒。東京大学医学部精神医学教室。

1969年に出版された『日本の犯罪学』に論文を寄稿しており、その時には所属が「中村病院」となっていますので、大学をやめて開業された(あるいは親の病院を継いだ)ようです。ただ、埼玉県内に精神科専門の中村病院という病院があるので電話で問い合わせてみましたが、中村一夫なる人物には心当たりはないとのことです。

それと、復刻版がアマゾンで18,000円とかの「コレクター価格」のものしかないようなので、旧版のリンクも貼っておきます。内容はどれも一緒です。

(2011年1月12日追記)
その後の調査で、中村一夫氏の「中村病院」は現在も埼玉県内にある中村病院とは別物であることが判明しました。詳しくはこちらのエントリをご参照ください。

  

津山事件: 都井睦雄の写真 その2

toimutsuo3都井睦雄の写真『津山事件報告書』より

筑波本に掲載されていた都井睦雄の写真は、報告書の写真をトリミングしたもののようです。元の写真を置いておきます。

鹽田末平検事の論文によると、睦雄は身長5尺5寸(約167cm)、体重16貫位(約60kg)とのことです。昭和22年の「国民栄養の現状」によれば、昭和22年時点で31~40歳の男性(睦雄と同年代)の平均身長は160.6cm、体重は54.35kgとのことですので、それと比較してもかなり大柄かつ恰幅の良い体格だったことがわかります。写真でも頬がふっくらとしており、肩幅も広く体格の良さを感じさせます。

この写真で睦雄が着用している服は詰め襟になっています。ぱっと見たときは国民服かと思いましたが、国民服は同じ詰め襟でも立折り襟なので違うようです。青年学校の制服ではないかという推測もできます。
いずれにしても、犯行当日の服装は「黒の詰襟」であることが報告書にも明記されていますので、この写真の服ではないと思われます。

津山事件に関する本はこちら

 

津山事件: 都井睦雄の戸籍謄本

mutuo_koseki都井睦雄の戸籍謄本:『津山事件報告書』より

この戸籍謄本の画像はおそらく本邦初公開だと思います。もしどこかで既出であればご指摘下さい。

父は大正7年(西暦1918年)12月1日に、母は大正8年(1919年)4月29日に亡くなったとされています。以前、両親の墓に記載された死亡年月日と筑波本の死亡年月日が異なることから、「筑波昭さんは『津山事件報告書』を元に睦雄の両親の没年や死亡年月日を記載したのではないか」という推測を書きましたが、それを裏付けるものです。

なぜ戸籍と墓で死亡年月日が異なるかという点については、当時は戸籍の届出が適当だった、ということに尽きるのではないかと思います。例えば、津山事件の被害者には「内妻」の扱いの女性が数名いました。いわゆる「足入れ婚」の一種で、結婚しても子供を生むまでは妻を入籍しなかった風習の反映と思われます。それと同様に、戸籍と実情は異なるのが半ば当たり前だったということで、墓に記載されている方が実際の死亡年月日だと思います。

両親の生年月日については、この戸籍には記載がありません。報告書の他の部分にも記載がないようです。そもそも筑波本記載の生年月日が墓石記載の享年とつじつまがあっていないことはこちらのエントリでも疑問を示した通りで、どこから持ってきたものかよくわかりません。

戸籍謄本からわかることが他にもいくつかあります。

  • 大正7年に父親が亡くなったために睦雄が家督を相続し、まず母が、そして母の死後は祖母が後見人となっています
  • 上記の後見は昭和12年3月に睦雄が成人に達したことで終了しています。睦雄が岡山農工銀行へ600円の借金を申し込んだ(最終的には400円に減額されましたが)のは昭和12年4月なので、後見が終了して自分の判断で財産を処分できるようになったらすぐ行動に移ったことがわかります。
  • 都井家は昭和10年4月に倉見から貝尾へ本籍地を移動しています。睦雄が満18歳の時ということになりますが、理由はよくわかりません
  • 姉は事件当時まだ嫁ぎ先に未入籍で、都井家に戸籍が残っていたようです。睦雄と祖母の死亡届も、姉が「同居人」として届け出たことになっています。事件当時臨月だったとのことで、事件後の7月になって嫁ぎ先に入籍されています
  • 戸籍上は睦雄の死亡時刻は午前7時になっています。おそらくは遺体が発見された時間を記載したものでしょう
  • その割には祖母の死亡時刻は午前2時になっています

睦雄の死亡届は5月25日に提出されており、姉が嫁ぎ先へ入籍したのが7月25日ですから、その間の2ヶ月あまり都井家は姉が戸主(女戸主)だったことになると思います。しかし、そのあたりは謄本には何も書かれていません。

姉は事件当時臨月だったにもかかわらず、婚家で一時「分娩させない」という話まで出たとのことです。しかし、2ヶ月後には無事入籍されていることからも、最終的には嫁ぎ先に円満に受け入れられたことがわかります。

津山事件に関する本はこちら

 

津山事件: 津山事件報告書 その2 筑波本との比較について

一通り『津山事件報告書』を読んだところ、筑波本: 『津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇 (新潮文庫)』に掲載されていた下記の内容は報告書には記載されていないことを確認しました。ただし、以下の内容は今後読み込んでいく中で予告なく変更・修正・追加する可能性があります。あらかじめご了承下さい。

  • 姉の証言: 報告書には、姉の証言は筑波本の一番最初に出ている刑札に対する証言(「私は都井睦雄の実姉であります」で始まるもの)だけしか掲載されていません
  • 「内山寿」関係: 報告書に掲載されているのは睦雄が内山寿に連れられて津山の売笑宿に登楼したという内容数行だけで、大阪で阿部定のいた住吉アパートに行ったとか、会話の内容はありません
  • 阿部定関係: 報告書には、阿部定に関することは全く出てきません
  • 雄図海王丸: 報告書にはタイトルも出てきません。ただし、この件に関しては筑波本に原稿の写真もあり、筑波氏の独自取材によるものであることはほぼ確実と思われます

特に、姉の話として紹介されているエピソードのほぼすべてが報告書には掲載されていないという事実は、今後津山事件ならびに都井睦雄の言動を論ずる上でかなり重要なことであると思います。ただし、筑波氏が執筆当時まだご存命だった姉に取材して書いたという可能性もありますので、さらに確認が必要とは思います。

一例を挙げると、この辺のエントリここでも論じた、中学進学に関するおばやんと睦雄と姉の会話は報告書には出てきません。岡山一中と二中のケンカのニュースを聞いて、「ほれみい。こないな学校さ往なんでよかったじゃろが」とおばやんが言った話もありません。報告書にあるのは、高等小学校の担任教師が「上の学校に行ってみないか」と言った話だけです。

一級下の武井孝子という少女の絵を描いて云々という話も出てきません。報告書には小学校時代の担任教師のコメント一覧もありますが、そこには一般的な性格や勉強に関することだけで個別のエピソードは出てきません。

また、内山寿関係については、筑波本にちらっと出てくる浅草で窃盗で捕まった際の「陳述書」が実在してそれが元になっている可能性もあります。ただし、内容に矛盾も多いので、これも筑波氏の創作である可能性は低くないと個人的に考えています。

以前から筑波本には筑波昭氏自身の創作にかかる部分が多いのではないかと個人的に思っていました。とりあえず、『狭山事件報告書』には掲載されていない部分が多いという事実だけ、ご報告します。

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津山事件: 津山事件報告書 その1

IMG_1887津山事件報告書 司法省刑事局編

あらかじめお断りしておくと、今回は釣りではありません。

事件の直後に作成された『津山事件報告書』をとうとう閲覧することができました。証拠として表紙の写真を掲載しておきます。筑波本(ハードカバー版: 『津山三十人殺し―村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか』)のグラビアにある「津山事件報告書」の表紙と見比べると、筑波本で黒塗りされていたのは通し番号であったことがわかります。

閲覧できたのは日本国内ではありません。ググればすぐにどこかわかるとは思いますが、はっきりした場所を書くのは差し控えます。公開したところでこの場所にマニアがわらわら来るようなことにはならないとは思いますが、あまり迷惑がかかってもいけないので。ここにたどり着くまでの四方山話も後ほど。

世の中の津山事件本の総元締めと言える筑波本も、基本的にはこの本の引き写しの部分が多いことが閲覧してわかりました。驚いたことに、筑波本の250ページあたりから掲載されている被害者の家の見取り図は、ほぼこの「報告書」にあったものののコピー(名前だけ仮名にしてある)でした。また、おそらくは、松本清張の「闇を駆ける猟銃」もこれを参照しています。

「報告書」と銘打ちながら、全部で500ページ近くある大部の本になっており、旧カナ旧字体であることもあって、読み込んでいくとそれだけで1週間くらいかかりそうです。いろいろな点で面白くて、書き始めると100本くらいこの本をネタにブログを書けそうな勢いでもあります。

今まだ海外にいること、泊まっているホテルのインターネット接続が安定しないこと、さらには報告書を読むだけでかなり時間がかかりそうなことから、とりあえずご報告だけアップして詳細は帰国してから改めてご紹介します。

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