さて、今回で下山事件関係はいったん一段落としたいと思います。今回の画像は『謀殺 下山事件』からの引用になります。
「文春秋谷鑑定」において「塩基性でしかもベースではない」という摩訶不思議な記述がありました。この記述の元になったと思われるのが今回引用した部分です。
さて、今回で下山事件関係はいったん一段落としたいと思います。今回の画像は『謀殺 下山事件』からの引用になります。
「文春秋谷鑑定」において「塩基性でしかもベースではない」という摩訶不思議な記述がありました。この記述の元になったと思われるのが今回引用した部分です。
あけましておめでとうございます。
正月休み中に『下山事件全研究』を読み直していたら、その5で保留した秋谷教授ご自身の「文春秋谷鑑定」に関するコメントが見つかりました。灯台もと暗しですね。
まず、秋谷教授の法医学教室で助教授を務め、下山事件関係でも実際の鑑定作業の多くを担当した塚元久雄氏(のちに九州大学薬学部教授)のコメントとして、「これはちがうな。あとのほうになるとまるで推理小説だね。僕は鑑定書とはおもわんね。」「僕が書いてこなかったことや、知らないことがだいぶある」という発言が出ています。また、塚元氏は「これは誰かの手が入っているな。Yじゃないのかね。『失血死』につながるなんてのは、彼がいっていたことと同じですよ。事件当時はショック死だったはずじゃない?」と、外部の「Y」氏がこの「文春秋谷鑑定」を書いたのではないかという推理も披露しています。
「諸永氏のレトリック」最終回です。ネタとしてはまだまだありますけど、キリがないし個人攻撃をしているように取られるのもイヤなので、この辺でいったん終了とさせていただきます。
本題に入って今回引用した画像についてですが、まず、そもそもの問題として、どうして「東大法医学教室の主任教授だった古畑」が色素の鑑定を担当したことになっちゃうんでしょうか。東大裁判化学教室や秋谷教授はどこに行っちゃったんでしょうか。その前のページ(133ページ)にも「この油について東大法医学教室が調べたところ、機関車や貨車に使われる鉱物油ではなく、最終的に米ぬか油だとわかった」となっていますが、医学部に所属する法医学教室が、なんで死体じゃなくて油の分析や鑑定をやらなきゃいかんのでしょうか。133ページの最初にはちゃんと「警視庁から東大裁判化学教室に持ち込まれた下山の衣類には」云々とあるんですが、どっかで法医学教室と裁判化学教室が入れ替わってしまったようです。
前回引っ張りましたが、末廣旅館に現れた「下山総裁」がタバコを1本も吸わなくなるのには諸永氏のテクニック(笑)が一役買っていると思います。それ以外にも、今回引用した画像には諸永レトリックを堪能できる部分がいくつかあります。
Wikipediaの「下山事件」の項目で、こんな内容が最近いったん除去されたのに復活されました。
強度の近視でヘビー・スモーカーの下山にも関わらず、旅館滞在中メガネを外し続け、タバコを一本も吸わなかったとの証言もある。
ご丁寧に、「編集内容の要約」欄にはこのようなことが書かれています。
削除された部分は、平成三部作に基づいているのではなく、矢田喜美雄『謀殺下山事件』や下山事件研究会『資料・下山事件』に述べられている事で、事実に反してなどいない。
しかし、実際のところ、『謀殺 下山事件』にも『資料・下山事件』にも、末廣旅館で総裁がメガネを外し続けていたとか、タバコを1本も吸わなかったなどという記述はありません。なんでそういうことになってしまっているんでしょうか?
今回からしばらく、「平成三部作」の最初のきっかけとなった週刊朝日の記事をメインで書き、その結果を『葬られた夏』という書籍にまとめた諸永裕司氏の叙述テクニック(笑)について見ていきたいと思います。
諸永氏がよく使うテクニックは2つあります。
これだけだとわかりにくいと思いますので、具体例を見てみましょう。
週刊朝日の昭和44年9月19日号に、松本清張氏が「下山事件 幻の『謀略機関』をさぐる —ひとつの推理的結論—」という文章を寄せています。その中で、今回の画像のような文章を「秋谷鑑定」の内容として引用しています。時系列を確認すると、これは、昭和39年6月の衆議院法務委員会より後、昭和48年8月号(7月発売)の「文春秋谷鑑定」の発表より前、昭和44年8月の「資料・下山事件」の出版とほぼ同時期ということになります。
これまで「文春秋谷鑑定」とその問題点について見てきました。実は、これまでに、真正の「秋谷鑑定」の内容が一度だけ公になったことがあります。