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津山事件: 稀代の殺人鬼 その2

合同新聞昭和13年5月25日付合同新聞昭和13年5月25日付

24日付特集記事の続きです。西加茂村行重が生んだ百姓一揆の首謀者である仁木直吉郎との比較が論じられています。

貝尾の地図が掲載されています。この地図を筑波昭『津山三十人殺し』に掲載された地図と比較すると、ほぼ左右が反転しています。実は本ブログの筆者は現地を訪問したことがないのでどちらが正しいのかわからないのですが、是非とも将来的には一度訪問の上確認してみたいと考えています。

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津山事件: 稀代の殺人鬼 その1

合同新聞5月24日付合同新聞昭和13年5月24日付

合同新聞は、5月24日から5回連続でこの事件の特集記事を組んでいます。今回の紙面では「上」となっていますが結局5回連続になっています。地方紙で1日4ページほどしかない紙面のうちこれだけのスペースを毎日割くというあたりに、地元における事件の衝撃の大きさが表れています。また、よく言われる「日中戦争の最中だったために報道管制が布かれた」という記述(「八つ墓村」の昔の文庫本の解説という話はあるものの、この記述自体がどこにあったものかというのも実は怪しいのですが)は事実無根だったことがわかります。

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津山事件: 練習と成果

合同新聞昭和13年5月23日付合同新聞昭和13年5月23日付

最初に:「津山事件 写真」あるいは「都井睦雄 写真」で検索してこちらに来訪された方は、こちらのエントリをご参照下さい。こちらのページもどうぞ。

津山事件直後の新聞記事です。

都井睦雄が射撃練習をしていた松の木の写真、使った猟銃(5連発を9連発に改造したもの)などが掲載されています。松の木には150発以上の弾丸が撃ち込まれていたとのことです。前回のエントリに書いたとおり、海外の同様な銃乱射事件では、無差別にぶっ放すだけなので死者と同じくらい負傷者を出していますが、睦雄の場合は死者30人に対して負傷者3人で、狙った相手にはきっちりぶち当てていたことがよくわかります。悪口を言わなかった相手は見逃したりしていますし、その気で無差別でやっていればもう少し記録は伸びたことでしょう(不謹慎)。

犯人の都井+殺された30人で合計31個の棺は当局が手配したと書かれています。都井自身はこの村ではなく倉見(祖母の嫁ぎ先、事件があった貝尾部落からは4~5km北)に葬られているので、 そこまで棺に入れられて運ばれたんでしょうか?

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津山事件: 津山事件の被害者の談話

合同新聞昭和13年5月24日付合同新聞昭和13年5月24日付

今日は津山事件の方を。

この事件は通称「津山事件」と呼ばれていますが、実際には津山郊外の西加茂村で起こった、22歳の若者が同じ村の村民30人を銃や日本刀で殺害、3人に重軽傷を負わせた後自殺した事件です。詳しくはこちら

この事件の被害者の一人で、事件の原因ともなった女性(筑波昭の『津山三十人殺し』で「寺井ゆり子」という仮名になっている女性)が逃げ込んだ先の娘さんが事件について語っています。

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狭山事件: 特別重要品触 その2

毎日新聞昭和38年5月9日付朝刊毎日新聞昭和38年5月9日付朝刊

前回のエントリで採り上げた品触の写真が真っ黒になっていて見えにくかったので、毎日新聞の方からもう少し見やすい写真を。

見て判るとおり、どう見てもダレスバッグ(ダレス鞄)ではありません。(…本当にありがとうございました。)

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狭山事件: 特別重要品触

『冤罪・狭山事件』『冤罪・狭山事件』より、「特別重要品触」

佐木隆三の「ドキュメント狭山事件」などでは、被害者の父親が狭山署員に語ったという 「薄茶色の一見皮製に見えるチャック付きのカバン」という表現に対して、実際に出てきたカバンが皮製であったということをもってカバン自体も捏造・すりかえられたものではないかと疑いをかけています。しかし、5月8日時点で出された品ぶれで「牛革製」と明記されていますので、その疑いはあたらないのではないかと思います。

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狭山事件: 死体発見者2人 その2

週刊朝日 昭和45年12月18日号週刊朝日 昭和45年12月18日号

広○さんが第一発見者として採用されなかった理由は、広○さんが死体と共に「あるもの」を発見したからではないか、とされています。

ここで重要な証言として、ご本人が、(イモ穴の)「中をのぞくと一目瞭然(被害者)ちゃんの所持品と思われる ものが見えた。だからこの近くが怪しいと思って探したんだ」と言っています。事件から7年経っていることもあってか、その「一目瞭然所持品とわかるもの」が何だったかについては「カバンだったか上着だったか…」とあやふやになっていますが、いずれにしても、すぐ近くのイモ穴にのぞいてすぐわかるような状態でそういったものを捨てていたということは、犯人は死体を隠すつもりがなかった(ある意味では早く発見してほしかった)ものと考えられます。

また、これがルポライターの栗崎氏が言うようにカバンだったとすると、どこへ行ってしまったのでしょうか?刑札で保管されていて、後に「三大物証」の一つとして「自白」に基づいて「発見」されたカバン(このカバンについてもいろいろ疑惑が持たれたりしていますが、それはまた別の機会に)になったんでしょうか。

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