狭山事件: 被害者の日記 その2

被害者の日記女性自身昭和38年5月20日号

」にて個人的にかなり衝撃的だったのがです。一応、狭山事件の公判調書類には一通り目を通していたつもりだったのですが、上告趣意書に詳しく被害者の日記の内容が書かれているというのは見落としていました。自らの不明を恥じると共に、きっちりと資料を読み込んでおられる伊吹氏の姿勢には頭が下がります。

本日の画像は、そこからたどっていって確認した、「女性自身」昭和38年5月20日号に掲載された被害者の日記です。

私(管理人)が以前のエントリで推測したとおり、被害者はあらかじめ日記のページの左の方に予定などを書き込んでいて、その日が終わると右から当日あったことなどを書いていたようです。写真に写っている5月1日(事件当日)の日記

私の誕生日(十六才)。うれしい。

も左端に書かれています。写真が荒くて全部の文字ははっきり読めませんが、「誕生日」あたりは判読できます。

ちなみに、5月20日のページの左の方にはこのように書かれていたとのことです。(画像でもかろうじて一部判読できます)

今年はぜひ、後楽園で王さんに会いたい。最も良い成績をおさめてほしい。王さんの誕生日だ。今年は優勝してほしい。

このことから考えても、5月1日の記載はかなり以前から書いてあったのではないかという推測も可能です。さらに5月1日に「うれしい」理由が当日誰かと待ち合わせて誕生日を祝うからだったと仮定すると、その約束はかなり以前からしていたのではないかということになります。

次回からしばらく、この被害者の日記について論じたいと思います。

(2009年3月30日追記): この日記が掲載されていた「女性自身」を、当初「昭和38年6月10日号」と記載していましたが、「昭和38年5月20日号」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。

5 thoughts on “狭山事件: 被害者の日記 その2”

  1. この五月一日の日記ですが、下の方の欄に次の、「ゴム印で押された縱型被害者氏名」、「手書きによる(〇〇才)」、「三文判らしき陰影の被害者の名字」の新聞広告を目にしました。

    この一連の、といいますか実際の欄外の『この』記載事項は、一体どのように解釈するのが良いのでしょうか。特に何処にも記載されていないので、今更ながら質問させて頂きます。

  2. こんにちは。
    自分の書き入れたコメント(4/13日付)が、とても分かりづらいので、改めて書き込ませて頂けたらと思います。宜しくお願いします。

    お伺いしたいのは、1963.5.14付M新聞7面、「女性自身5月20号」新聞広告の、日記画像のことです。

    この広告は本誌独占とし、5月20日号で、Yさんの最後の日記を公開すると告知しています。その字面の背景に、「5月1日」の日記画像が使用されていますが、それは実際の5月20日号で使用された日記画像とは、別のカットのものです。

    で、このカットに写っているのが、

    ・5月1日(水)
    ・私の誕生日(十六才)うれしい。

    です。さらに、要記欄に、

    中 田 善 枝
    (○○才)
    中田印

    とあります。

    補足しますと、
    ・「中田善枝」はタテ型ゴム印で押印されている。
    ・「(○○才)」は、括弧も含め手書きで書かれているが、広告文字が重なり○○部分は、読み取りにくい。
    ・「中田印」は、楕円形の判子。
    以上です。

    管理人様のブログでも触れられていないことから、周知の事実なのかもしれませんが・・・、この「5月1日」の要記欄の内容は、いつ誰が押印したり書き入れたりしたものなのでしょうか?
    ご教示頂けましたら幸いです。

  3. 度々スミマセン。

    この女性自身の5月20日号の広告は、5月14日の紙面にも掲載されています。が、画像が異なり、日記画像は、5月1日の

    私の誕生日(十六才)うれしい。
    のみしか写されていないで、

  4. 管理人様>

    あの手この手(三度目は誤送信デスガ)で訊ねてしまいましたが、管理人様もお初だったとのこと、驚きました。
    おこがましくも、Yさん理解の一助になれば幸いと思います。

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