SG巡査部長について

SG巡査部長は、狭山署交通課の一主任(巡査部長)でありながら、捜査の 重要なポイントのほとんどに顔を出しています。
(下記の記事は毎日新聞昭和38年6月26日付朝刊に掲載、クリックすると拡大)

5月3日 被害者の自転車についていたゴムひもを発見
時刻は午後3時で、被害者の遺体が発見される前だった。
場所は遺体発見現場に近い雑木林の中。カバン、教科書の発見現場とも近い。
6月20日 IK氏の「自白」を引き出すことに成功。
6月21日 IK氏の「自白」に基づいて被害者のカバンを発見
6月21〜22日頃? IK氏の自宅に、家人が寝ている間に勝手口から無断で入り込む。
6月26日に別の刑事によって勝手口の鴨居の上から「発見」された万年筆は、以前(5月23日と6月18日の2回)行われた 家宅捜索の際には存在しなかったことが家宅捜索に参加した刑事の証言で明らかになっている。そのため、SG巡査部長が 入り込んだときに万年筆を置いたのではないかと疑われている。

ゴムひも発見について
「証拠」のほとんどに刑札によって捏造・操作された疑惑がもたれていて、あまり当てにならないのがこの事件の特徴の 一つです。しかし、5月3日、まだ被害者の遺体も発見されていない段階で刑札が組織として証拠の捏造にまで手を染める というのも考えにくいので、この時点ですでに証拠の操作が始まっているものと仮定すると、SG巡査部長が個人的に犯人 グループに手を貸していた可能性が高いのではないでしょうか。
証拠の操作はもっと後、IKさん逮捕後になってから(刑札の組織ぐるみで)始められたという可能性もありますが、ゴム ひもの発見場所が後のカバン・教科書の発見場所と近い(ついでに言えば、殺害現場も含めてSG巡査部長の自宅からも近い) ことから考えても、このあたりの証拠の操作は真犯人(あるいは真犯人グループ)による捜査誘導の一環として行われたと 考える方が自然な気がします。

地元署と県刑の間で
地元の刑札官だからそれだけ活躍できた、という見方もあるかもしれません。しかし、他にも何十人も地元刑官はいたで しょうし、そもそもSG巡査部長は3年前に狭山署に転任してきたばかり(それ以前は所沢署勤務)だったことを考えると、 本当の地元刑官の方が土地勘・地縁などはあったものと思います。
事件が起こった当初、SG巡査部長は、県刑から来たお偉方(H警視やN刑事部長)と地元刑札の間で起こった反目、ならびに 自分自身が狭山署に赴任してまだ3年目で、いわば進駐軍である県刑と地元刑札の両方を理解できる立場であるという売り文句を 利用してお偉方の信用を勝ち取っていったのではないでしょうか。その中で、最初の段階でのゴムひも発見というのは、 非常に強力な(信用を勝ち得る)武器になったことでしょう。
そうして、捜査の途中からはH警視の手足となって証拠探し(デッチ上げ)をしたり、IKさんの自白に立ち会ったりというところ まで捜査本部内での地位を確立していったのではないでしょうか。こうなれば怖いものなしで、実際にはH警視やN刑事部長 を操る(彼らは上がってきた情報を元に判断を下す存在であるわけで、上げる情報を操作すれば特定の方向に判断を向ける ことはそう難しくないでしょう)ようなこともしていたとも考えられます。

偽装工作と自白引き出し
「刑札や犯人は、真犯人が捕まった場合にバレてしまうおそれがあったのに、なぜ様々な偽装工作を行ったか」という 疑問についても、SG巡査部長の関与を仮定するとある程度説明がつきます。
要は、最初から被差別部落の若者を「犯人」としてデッチ上げるつもりだったのではないか、ということです。
SG巡査部長は狭山署に赴任してきてからすぐに被差別部落の若者たちに野球を通じて近づいており、「この中の誰かは、自分が 説得すれば自白に持って行ける。また、証拠も公判を維持できる程度にデッチ上げられる」という自信があったのではない でしょうか。その中でIKさんが選ばれたのは、たまたま事件当日のアリバイがなかったという偶然(というか不運)という ことになります。

さのヤにおける行動
狭山署交通係主任であるSG巡査部長であれば、張り込みの詳細計画を手に入れ、それを元に捕まらないルートを設定して共犯者に 教えることは可能です。
そもそもさのヤに行ったのは営利誘拐を偽装するためであり、金を取る気はなかったので、とにかくその場で捕まらないように だけ気をつけさせて、逃げるときに万一共犯者が捕まった場合にはSG巡査部長が口添えして逃がす、という算段もあったのでは ないでしょうか。あるいは、地元刑官が重要地点に配備されないことが決まった時点で、SG巡査部長自身も「地元民にバレない ようパトロールをします」とか何とか言って抜け出し、現場に一緒に行った可能性もあります。


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